◆「性の目覚め」と「放蕩留学」
肉体関係こそなかったものの、ペンネームの由来にもなった荷風の「最初の女性」は、10代半ばで入院中に出会った看護師、蓮である(*注2)。その後、荷風は学業を放棄して「遊興の道」に入る。24歳でアメリカへ発ち、4年と7か月を全米各地とフランスで過ごすという、当時の日本人としては破格の経験を積んだ後、帰国した。
【*注2/蓮の葉のことを「荷葉」と呼ぶことにちなんでいる】
海外滞在中、元エリート官僚だった父親が望んだのは「実業」を学び、永井家の長男としての自覚を新たにすることだったが、荷風が当地で実践したのは、娼婦のイデスと交情にふけり、音楽や絵を愉しむことだった。
〈自分は西洋婦人の肉体美を賞讃する一人である。その曲線美の著しい腰、表情に富んだ眼、彫像のような滑な肩、豊な腕、広い胸から、踵の高い小な靴を履いた足までを愛するばかりか、彼等の化粧法の巧妙なる流行の選択の機敏なのに、無上の敬意を払って居る一人である〉(永井荷風『あめりか物語』)
これが荷風その人の言葉で語られた西洋婦人の魅力である。1908年の帰国後、自らの経験に虚構をまぶした私小説のような創作『あめりか物語』、『ふらんす物語』(発売直後に発禁)を発表し、森鴎外の推薦で慶応大学教授の職を得たが、荷風は「流儀」を捨てなかった。両親の意向で材木商の娘ヨネと結婚するも、約3か月後に父親が亡くなると、すぐさま離婚。当時、付き合っていた新橋芸者の八重次と再婚するが、翌年には破綻し、荷風は名実ともにプロの女性だけと付き合う「色の道」に生きることになった。