「現地では、全くわからないベトナム語の歌詞を急に渡されて、歌うこともありました。この経験が、のちに随分役立ちました。大変なことでも、何とかやろうと頑張ればできるもんだなって」
「電子(テレビ)の皇后」と呼ばれて人気を博し、帰国後の1958年に『お座敷ロック』でデビュー。そして1961年に、神戸一郎のB面として出した曲『おひまなら来てね』が中京地区から徐々に話題を呼び、大ヒットする。
「当時はファンが家まで来たんですよ。客商売だからか両親が気さくで、彼らを家の中に入れちゃうんです。ある朝、寝巻き姿で起きてきたら、知らない男の子たちが、食卓でおにぎりを頬張っていて驚きました(笑い)」
『NHK紅白歌合戦』出場を3年連続で果たした翌1965年、村田英雄所属の新栄プロダクション社長・西川幸男氏と結婚する。14歳年上だった。
「私は違う事務所でしたし、顔見知り程度の間柄でした。複数の歌手の方と地方興行に行った時、旅館の部屋に呼ばれたんです。部屋の障子を開けると、いきなり頭を下げて『結婚してくれ』って……。お父さんにすごく反対されました。でも、ずっと敷かれたレールを歩いてきたから、言いなりになりたくない自分がいたんですね」
芸能活動を休止し主婦業に専念するも、結婚生活は6年で破綻。芸能界に舞い戻る。