激戦の地「私学校」跡(鹿児島市)。塀に無数の弾痕が残る
実はこの田原坂は、加藤清正が北の護りとして人工的に抜いた道なのだ。意図的に凹状にしたのである。二の坂はふつうにこいで走れたが、これは深追いを誘う罠かもしれない。そのまま勢いで三の坂、ここでまた勾配はきつくなる。意地でなんとか頂上までこぎ切ったが息があがっていた。
所要時間は一の坂8分、二の坂三の坂合わせて3分。薩軍がいたら17日。そこから熊本城まではざっと1時間で楽に行けてしまう。事実としても実感としても、田原坂は熊本城の北の出入り口だ。
そしてどちらも当時から数えて200年以上前の、加藤清正の作品で、広く言えば日本の歴史が生んだものだった。城郭が政府軍の籠城を助けた一方、田原坂は薩軍に利した。内戦には歴史の獲り合いという一面があるが、それを具現しているようではないか。
◆薩軍の野戦病院
翌日は熊本城から南に7kmの川尻(熊本市南区)を訪れた。北側と打って変わってこちらは完全に平地であり、道中、特に戦跡はない。
川尻は、北上してきた薩軍が最初に集結し、本営を置いた地だ。高いビルがなく、平入りの小さな町家が並ぶ美しい町だった。南に加勢川が流れ、河口まで8kmのこの地には中世からの石組みの船着場跡が残っている。薩軍の本営が置かれたという屋敷はそのすぐそばにあった。
この町に延寿寺という天台宗の寺があり、薩軍はここを野戦病院にしていた。境内には、真新しい屏風型の碑が置かれている。「西南の役薩軍戦没者 延寿寺埋葬者名」と刻まれ、800名以上の氏名が並ぶ。薩軍全体の戦死者がおよそ6400名だから、これは相当な割合だ。第37代住職の蔵原恒海さん(84)に話をうかがった。