彼女が22歳の1969年初旬、同僚と旅行していた鹿児島県・桜島で出会った大阪府の矢野正一さん(仮名)との交際が始まる。同年3月に銀行を退行した千佐子は、双方の実家の反対を押し切って矢野さんと結婚。大阪府貝塚市で暮らしながら1970年に長男、1971年に長女を出産した。
千佐子から当時の話を聞いた人物が明かす。
「千佐子はみかん畑での農作業を手伝わされていたので、顔が真っ黒に日焼けしていました。北九州から遊びにやってきた友人たちは、優等生で都銀に入った彼女の変貌に驚いたそうです」
その頃、矢野さんは印刷会社を立ち上げた。しかし、安い中国製品に押され、経営は上手くいかなかった。経営難が続くなか、1994年9月に矢野さんが病死。千佐子は実家や亡夫の親族や友人などから借金を重ねて営業を続けるが、2001年ついに廃業し、土地と建物は競売にかけられてしまう。
この時期、千佐子は矢野さんの親類と良好な関係ではなかったと彼女の知人は語る。
「彼女は差別的な扱いを受けていたようです。そのことに腹を立て、“北九州は近代産業発展の中心になった八幡製鉄所がある地域。そこの出身者が、なんでこんな田舎の人に馬鹿にされなならんの?”などと口にしていました」
プライドの高い彼女が受けた“屈辱”を晴らすためには、借金返済が急務だった。廃業前のことであるが、彼女の行動にこれまでにない変化が見られた。複数の結婚相談所に登録し、交際相手を探すようになったのだ。