OB会長の穴見氏(撮影:藤岡雅樹)
「とにかく原監督の情熱が甲子園に導いたことは間違いありません。当時は木製バットの時代ですが、良質な木材を宮崎まで探しに行き、熊本の工場で作ってもらっていた。甲子園に出場すると、暑さ対策として、ブドウ糖とビタミン剤の入った注射を宿舎近くの病院へ毎日打ちに行きました。当時、そこまでしてくれる監督はいなかったでしょう。先見の明がある方でした」
原は全国制覇の翌年、東海大学の創設者である松前重義に請われて、東海大相模の監督となり、原辰徳の東海大進学と共に同大の監督に就任。穴見は東海大相模の後任監督に指名されるなど、原貢の愛弟子というべき存在だ。
母校が優勝以来、一度も甲子園に出場できていない理由については、「人材不足」と語った。
「(2014年に亡くなった)原監督のように、野球を愛し、選手に愛情を持って接する指導者がいなかった。もう一度、甲子園に出てほしいというのは、原監督の願いでした。出場できるなら21世紀枠でもいい。ただ、ボランティアをするなど、地域の理解を得られないと、福岡県の高野連から21世紀枠に推薦してもらえません」
出場が叶わない理由のひとつが、生徒の8割以上が就職を希望し、就職内定率が毎年10割である点だ。30歳の青年監督・次郎丸岳博が言う。
「少子化の影響で、企業が工業高校の人材を求めている。大手企業に就職できますので、生徒にとっては恵まれた学校だと思います」