放送大学教授の原武史氏


◆美智子皇后に影響を与えた精神科医

高山:今は病気の方は薬さえ飲んでいれば治るけど、差別の方はなかなかなくならないというね。陽平さんは2010年12月の国連総会で「ハンセン病差別撤廃決議」の全会一致による採択を勝ち取り、この事実を世界中で訴え続けているんですが、何しろ旧約聖書に「神罰」と、ハッキリ書かれちゃってますからねえ……。

 ところが近年、旧約聖書の時代はシナイ半島にハンセン病は存在しなかったという事実が判明し、ハンセン病とされた病気は象皮病とか重い皮膚病の類だったということになっている。ではなぜハンセン病とされたのかというと、これも一種の「メタファー」、記号なんです。神罰を受けた者のメタファーとして「癩者」とか「癩」という言葉が頻繁に聖書に使われ、病気そのものとは関係なく、一種の「被差別者」という括りでハンセン病者の存在が語られてきた。

 そして新約聖書の時代には神の子イエスが病を癒す奇蹟の物語が生まれます。たとえば死因は不明なんだけれども、癩病で死んだのではないかと考えられているユダヤ人のイエスの友人ラザロの場合は、死後4日間土の中に埋められていたラザロを引き上げて、「ラザロよ、出でよ」とイエスが涙を流して声をかけると、彼は生き返り、最終的に南フランスのマルセイユへ渡り、布教に励んだという伝説があるんです。でも実際はローマ人社会で差別されたラザロを西に逃がしたに過ぎないとも言えるわけで、別の患者に対しても治癒したあとで、「司祭のところに行って治ったことを認めてもらいなさい」と言うだけでしてね、これは旧約聖書のレビ記に書かれた通りのやり方を踏襲しているにすぎないんです。

 つまりイエスは革命児ではあったけれども、ハンセン病に関してはその重心の半分くらい旧約聖書の世界に置いていて、革命のために癩者を利用したとも言える。一種のプロパガンダとしてね。そうした差別の構造にこそ、笹川陽平は怒っているわけです。WHOのハンセン病制圧大使として、この病を完全撲滅する日を夢見て世界中を飛び回る彼の情熱の源泉は、実は父・笹川良一を、やれ右翼の大物だの、偽善者だのと、さんざん叩いてきた世間からの「いわれなき差別に対する怒り」なんですね。

原:いわば高松宮も、皇室では珍しく笹川陽平と同じようなことをやった人物でした。療養所の中にも自ら入って、周囲が呆れるくらい患者と接近してね。

 でもそんなこと、誰も知らないじゃないですか? 貞明皇后の隔離を前提とした振る舞いに関して、「皇室が差別に加担した」と批判はしても。そこは区別して論じる必要があるでしょう。

高山:おそらく高松宮は、正確な知識を持っていたんじゃないですか? 以前、北條民雄の評伝『火花』(大宅賞受賞作)にも書きましたが、川端康成も当時全生病院に入院中だった北條から手紙をもらって、2、3か月放っておいたのは、慶應病院で癩病の研究をしている知人の医者に話を聞いていたかららしい。それでこの病気が感染力のきわめて弱い伝染病だということがよくわかったと。高松宮もその程度の知識はあっただろうし、北條の代表作『いのちの初夜』もあるいは読んだかもしれない。あの本は当時、大変なベストセラーでしたから。

 ここで一言添えておくと、北條と川端のケースは世界的にも稀なケースでして、僕も陽平さんと世界中をずいぶん回りましたけど、日本だけなんです、こうした記録を患者が残しているのは。北條の作品は川端がいてこそ世に出た作品で、家族から戸籍を抜かれ、この世に存在しない人間になってしまった北條の文学を川端が社会に送り出そうとしなければ、今日まで伝えられることはなかった。事実、当時癩病と呼ばれたハンセン病の実態をこれほど詳細、かつ文学的に記録したものは、世界中、どこにもないですから。

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