放送大学教授の原武史氏
高山:駅にシボレーのタクシーが停まっていて、でも乗せてくれないというね。
◆北條民雄の死から77年後の「実名公表」
原:そう。実は『滝山コミューン一九七四』の冒頭で、東村山より2駅西武新宿寄りの花小金井で降り、滝山団地行きのバスに乗って団地に向かうシーンをなぜ書いたかというと、やっぱり意識したんです、北條民雄を。つまり駅を降りて、目的地に向かうと、目の前に隔離され、完結した独特の世界が立ち現れる感覚が、『いのちの初夜』の冒頭の、北條民雄が全生病院に入っていく感じと、似ている気がして。
今でも全生園に行くと、似てるんです。武蔵野独特の欅が屹立した風景とか、関東ローム層の赤土が冬になると巻き上がる感じが、時代を超えた風土としてあって、近くを野火止用水が流れていたりするのも、僕には懐かしくて。そこに高山さんも『火花』で書かれたように、川端が行くわけでしょう?
高山:ええ。昭和12年12月、北條が腸結核と肺結核を併発し23歳で亡くなった時に、彼と最後の対面をするために、鎌倉から電車を乗り継いで、わざわざね。
原:それこそ当時、東村山駅には患者専用のホームや改札まであったらしく、帰りの西武線で、よく患者の遺族がわざと遺骨を置き忘れるという網棚を、川端らしき「私」が何となく見上げる。その最後の1行が、ものすごく生々しいんです。
高山:そう。「癩院へ通う電車は、遺骨の忘れ物が最も多いと言われる。縁者が受け取ってはみたものの、始末に困って、網棚に遺していくのだ」というね、昭和16年の短編「寒風」です。本当に細部をよく見て書いていますよ、川端康成は。
それこそ遺骨を持て余すほど、当時、一族に患者がいるのは世間に憚られることで、死後もずっと伏されてきた北條の本名を、実は彼の死から77年が経った2014年の6月、親族の方が公表に踏み切られましてね。そのことも19年前に『火花』を書いた僕としては、ぜひ本書に書いておきたかった。
原:実際、高山さんのこの本もやっぱり読ませますよ。とくに文体が抜群です。
高山:まあ、できる限りわかりやすく書こうとはしましたね。何しろ陽平さんが行くのは日本人では誰も行ったことがないような土地がほとんどだし、ハンセン病の歴史も含めて、今はよく知らない読者がほとんどでしょうから。