東横電鉄は1934年に渋谷駅東口に東横百貨店を開業。渋谷駅で玉電と覇権を奪い合う東横の経営者だった五島慶太は、玉電の存在を苦々しく思っていた。玉電を撃退するべく、五島は玉電の株式を買い占める。玉電は東横に吸収される形で消滅し、五島は渋谷を掌握した。
五島王国化した渋谷駅は、その後も順調に発展。そして、五島は渋谷駅を発展させるために、渋谷駅に連なる東急沿線の開発にも力を注いだ。
1953年、五島は優良な住宅地の開発構想を発表。川崎市・横浜市・大和市・町田市に広がる地を多摩田園都市と名づけた。当初の多摩田園都市は人口1万5000人程度だったが、2000年を迎える頃には50万人にも迫り、いまや60万人を超える。渋谷の後背地である多摩田園都市の人口が増加を続ければ続けるほど、渋谷駅は繁栄した。まさに、五島の目論見通りだった。
多摩田園都市の人口急増によって、一大ターミナル駅となった渋谷駅の総仕上げを施したのがル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三だった。坂倉は五島の依頼を受けて、渋谷総合計画を起案。坂倉の渋谷総合計画には、渋谷に金融センターやバスターミナル、地下街・優良高速道路などを建設することが盛り込まれていた。そのうち、金融センターは渋谷駅東口に完成した東急文化会館として結実。
東急王国・渋谷には、五島にとって厄介なセゾングループという敵対勢力もいた。セゾングループは西武鉄道・総帥の堤康次郎によって生み出された。1964年に康次郎が死去すると、兄・清二が西武百貨店を核とする西武流通グループを引き継ぎ、弟・義明が西武鉄道グループを率いて西武は分裂した。
西武流通グループは、関東大震災直後より渋谷・百軒店の開発に参入していた。百軒店の開発は東急よりも先であり、そのため駅周辺よりも百軒店の方がにぎわっていた。しかし、百軒店は”大人”の街であり、若者が闊歩するような今の渋谷とは趣が異なっていた。
セゾングループに改称後、積極的に渋谷の都市開発にもコミットし続けた。渋谷は若者を魅了する街へと変貌させていく。1973年には、西武百貨店に隣接したファッションビル「PARCO」をオープン。また、1990年代に勃興したJ-POPはセゾンによる影響を大きく受けている。
東急と西武は、箱根や伊豆の観光開発で火花を散らす間柄だったが、時代を超えて渋谷でも争う強力なライバルでもあった。そこには、都市開発という面ではなく、文化という目に見えないソフトパワーの対立軸も垣間見える。
戦後から若者の街化する傾向を見せていた渋谷は、年を経るごとに若者色を強めていく。それは、若者の街を確固たるものにした1990年以降も変わらない。
一方、西武・セゾンの牙城である池袋駅は、どうだろうか? 渋谷駅同様に、池袋駅も若者パワーで発展してきたという歴史がある。
西武鉄道には本線が存在せず、実質的に新宿線と池袋線が本線として機能してきた。池袋駅東口には西武百貨店本店が立ち、まさに池袋は西武の牙城として不動の地位を築いた。
その池袋線のターミナルとなる池袋駅は、一日の乗降客数が約48万人。これは、西武鉄道の全駅でダントツ1位の数字だ。