朴コーチはかつて、1992年バルセロナオリンピックでの金メダル獲得や5度の世界選手権制覇など、1980年代から90年代半ばに国際舞台で活躍した世界屈指のトッププレイヤーだった。現役を退いてからは母国の韓国やマレーシアなどでコーチを務め、2001年には世界バドミントン連盟の殿堂入りも果たしている。おもにダブルスで実績を残したことから「ダブルスの神様」と呼ばれており、その卓越した技術や戦術を注入したことが日本人選手をレベルアップさせた面はあるだろう。ただ、それ以上に、負けても悔しがらなかったという選手のメンタリティや、それまではほとんど実施されていなかった日本代表合宿を強化の軸にするシステムを変えたことの方が、朴コーチの功績として評価が高い。
朴コーチ就任以前の日本代表は、ナショナルチームと言いながら、代表選手が集まって練習する機会は極端に少なかった。空港に集合して海外の遠征先で試合をこなし、帰国後は空港で解散することも少なくなかったという。それぞれの企業に所属する選手は、それぞれの拠点で練習するのが通例だった。バドミントンは個人競技であるため、そうした仕組みで成り立たないこともない。だが、それでは日の丸をつけることの重みを感じたり、日本代表選手同士の競争意識を高めたりすることは難しい。そもそも代表合宿をあまり行わないなど、他の競技では聞いたことがない。
競泳の日本代表は、2012年のロンドンオリンピックで戦後最多となる11個のメダルを獲得したが、このときクローズアップされたのが、「チーム力」だった。各選手が「チームジャパン」という意識を強く持つようになったことで、互いに高め合い、同時に、押しつぶされそうになる重圧を乗り越えられる効果もあったと言われる。世界を相手に戦うとなれば、たとえ個人競技であってもチームで刺激し合って強化することが欠かせないのだ。
朴コーチが来日した時期と前後して、「オグシオ」の愛称で親しまれた小椋久美子・潮田玲子組が人気を博し、バドミントン界が盛り上がりを見せていた。そして、オグシオのライバルでもあった末綱聡子・前田美順組が2008年の北京オリンピックで4位入賞を果たすと、4年後のロンドンオリンピックでは、藤井瑞希・垣岩令佳組(再春館製薬所)が日本勢としてオリンピック初のメダルとなる銀メダルを獲得。さらに4年後、リオでのタカマツペアの金メダルへとつながっていく。
各選手が日本代表としての自覚を高めつつ、着実に実績を積み上げていったことで、同じ時代に戦う選手たち、あるいは次世代の選手たちに「自分たちもやれる」という自信が芽生え、日本バドミントン界のレベルが飛躍的に向上したと考えられる。
9月11日から6日間、2年後の東京オリンピックの会場としても使用される調布市の武蔵野の森総合スポーツプラザで行われた「ダイハツ・ヨネックス・ジャパンオープン2018」。女子ダブルスではフクヒロペアが初優勝を遂げ、永原・松本組も8強に名を連ねた。しかし、第2シードとして臨んだタカマツペアは中国の若手ペアに初戦で敗れ、「今のままでは(オリンピックに)出られないというのが正直なところ。もう今は日本人に勝つことを目標にした方がいいかもしれない」と危機感を募らせた。
16ペアによって争われる東京オリンピックのダブルスは、基本的に出場枠が1ヶ国および地域から2組に限られている。今、世界ランキングの上位10位までにいる日本勢5組のうち、少なくとも3組はオリンピックのコートに立つことさえできない。当の選手たちにとっては気の休まらない、過酷な戦いが続くことになるが、それが日本チームとして高いレベルを維持させる策に他ならない。
国内の代表争いが熾烈な女子ダブルスは、いまや日本の柔道や女子レスリングのような潮流になりつつある。これが本当の意味で日本の「お家芸」になったとき、タカマツペアがリオでもたらした歓喜を、私たちは2年後の東京でも味わうことができるはずだ。