「当時彼はまだ独身だけど、そもそも事件関係者に恋をするようなロマンチストは公安失格です(笑い)。ロッキード事件に関しても、彼は真相の一端は垣間見ても、結局何もできないまま、組織の論理に呑まれていく。そうした人生のやるせなさを描けるのが小説です。組織の中で歳だけ取る砂田や、それを嫌って物書きになる逢沢、初心を捨てて出世に走る阿久津も含めた人生の傍らで真相は闇に葬られ、問題は先送りされるんです。
私自身、平成を生きた一人として今の事件を見ていると、全部昭和の闇と繋がっていると感じます。東芝の粉飾決算やオウム死刑囚の一斉執行も、連載中はまさかそんなことが起きるとは思っておらず、この国は何度同じ過ちを繰り返すのかと、怖くなるほどでした」
◆東京は掘り下げ甲斐のある舞台
その平成の終焉も想定外のうちに書かれた本作では、瀬島龍三や児玉誉士夫といった怪人物に加え、旧満州利権や戦前戦後の闇が影を落とし、〈ふざけやがって〉と砂田でなくとも言いたくなる。〈関東軍の戦費も、被補償国への賠償金も、すべて国民の税金である〉と。
一方、昭和という時代の躍動感には確かに心惹かれてしまう。公安部がオウム犯行説に拘り、結局は事実を歪めたまま迷宮入りした國松孝次警察庁長官狙撃事件(平成7年)でも、公安対刑事部の人事抗争が背景にはあり、その卑小さには失望を禁じ得ない。
「例えば本作に載せた長官狙撃事件に関する質問主意書や政府側の答弁は全て原文通り。〈御質問のような「人事抗争」については承知していない〉など、虚偽答弁も今に始まった話ではないんです。それでも国民を欺けると高を括る今の政治家と、〈いい政治というのは、国民生活の片隅にある〉と言った角栄の決定的な違いを見るにつけ、なぜこんな時代になってしまったのかと思う」