先延ばしは、開始や完了を意図して遅らせるだけでなく、事態が悪くなることが予想できるにもかかわらず決定を遅らせる、という心理でもある。「期待を裏切りたくない」、「失敗したくない」、「完全にやり切りたい」などの気持ちが強いと先延ばしをしやすいという。自分のためだけでなく、ファンや人々の期待に応えるため相撲を続けようとした稀勢の里。しかし、「まだやれる」と思えるうちは、引退を決意することが期待や重責からの逃げと感じていたのではないだろうか。
ところが、「一生懸命やってきた」という思いとは裏腹に、復活を期待された初場所は初日から連敗する。メディアの報道も世間の目も厳しさを増す中、取り組みを待つその顔には、横綱として初優勝を決めた場所で見せた、奥歯を噛みしめたような集中した表情はなかった。口先や口元に力が入った緊張感の強い表情ばかりが目立った。
最後の取り組みでは、栃煌山に寄り切られると身体から力がすっと抜けた。見ていた誰もが、横綱は勝負を諦めたと感じただろう。そしてそれは、まだやれるという思いや闘志がプチッと切れた瞬間にも見えた。
「もう自分の相撲が取れない」、そう感じた横綱にとって、引退の先延ばしは現状からの逃げにつながる。「絶対に逃げない」という信念を持つ稀勢の里は先延ばしをしなかった。亡き師匠の「横綱になると見える景色が違う」という言葉について実感を問われると、「まだまだ先代が見ていた景色は見れなかった」と声を詰まらせ、ぼろぼろと涙をこぼして無念さを滲ませ、引退する道を選んだ。
現役を引退して年寄「荒磯」を襲名した稀勢の里は、今後は親方として「一生懸命相撲を取り、けがに強い力士を育てたい」と抱負を語った。きっとこれまでの経験も無念さも糧にして、強い力士を育ててくれることだろう。いつか荒磯親方が指導した力士が優勝したというコラムが書ける日が来ることを、心から願っている。