「〈俳句は打球、句会が野球〉が僕の持論で、1人でできる俳句は誰かとやるともっと楽しい。実際、俳句をツイッターに掲げて、トーナメントで点数を競う〈タイマン句会〉が想像以上に白熱したり、河原で〈ブーメラン句会〉をやったり、物凄く楽しかったんですよ。
ただ、常に新しいことにトライし続けるには、同人の形だと統率がユルすぎて、モチベーションを保つのが難しいなと、やってみてこそわかりました。先人のトライがあって今がある以上、今後さらに先に進むにも、『辞めてみたらどうなるだろう』という挑戦です」
何かで見た。知っている。それでいて気にも留めないような些末なモノやコトに、長嶋氏はおかしみや悲哀を見出す名手として知られる。本書でも俳句やそれを詠む人によくありがちな光景を軽やかに切り取り、自らの恥や失敗談も含めて笑ってみせたかと思うと、後半、俳句の本質や自身の創作にかける思いにまで筆は及び、思わず胸がつまるほどだ。
「そう。意外と感動できる実用書なんです!(笑い)」
◆俳句の世界に足りないのは「逸話」
例えば〈俳句は「日本語」であって「和」のものではない〉。漫画家=ベレー帽、俳人=〈筆に短冊〉など、人は“らしさ”を求めがちだが、大抵の句会ではボールペンを用い、服装も至って普通。筆に短冊はいわば海外映画の中の〈勘違い日本〉のようなもので、俳人側も常に苦笑してやり過ごしているというが、氏は綴る。〈でも、ナンカコー〉〈「言っていっていい!」と思った〉〈書かれた中身こそが俳句本体のはずだ〉と。