「ところが3年くらい前に、そろそろ自転車とかが欲しいと娘に言われてしまって(苦笑)。あーあ、もう物語は作れないのかという淋しさから、様々な賞に応募するようになったんです。
私には特別な食材を使ったグルメ小説は書けないけれど、外食もせずに毎日食事を作ってきた経験自体は誇れるかもしれません。例えば桐子の祖母が昔よくお弁当にしてくれた〈菜の花そぼろと桜でんぶの二色ご飯〉は私も白身アレルギーの娘のためによく作りましたし、一話一話、料理とストーリーがほぼ同時進行で浮かんでいきました」
とにこやかに話す彼女は、本書を単に心温まる物語にはしない新人作家でもある。外見にコンプレックスがある桐子にとって、従妹の〈麦ちゃん〉の紹介で始めた調理補助のパートはマスクと色眼鏡で顔を隠せる理想の仕事だった。だが新人アルバイトの〈墨田君〉の歓迎会に自分だけが招かれず、欠勤した調理師の代役にも人柄のいい墨田が選ばれるなど、これまで息を詰めて均衡を保ってきた職場での〈積み木の塔〉は崩壊しつつあった。
「彼女が外見のことで悩み、人間関係をこじらせていくこの冒頭の設定が、読者をいい意味で裏切る牽引力になっていれば嬉しいなあと。美醜も味覚に負けず劣らず曖昧な概念ですし、桐子がマスクの中の閉じた世界を飛び出すには、周囲の力や自分の力、そして食の力も必要な気がしたんです」
そして川沿いのベンチで今日も1人、昼食のサンドイッチを齧る彼女に、〈あんた、今日は何時に上がりだい〉と声をかけてきたのが602号室の匙田さんだ。彼は近所のさびれた居酒屋〈やぶへび〉に桐子を案内し、店主の〈藪さん〉が軽く炙った酒粕を肴に一杯やる。
そして〈泣きべそかいて震えてたから、ちょいとあったかいもんでも食わせてやろうと思ってよ。厨房借りるぜ〉と言って作ってくれたのが、酒粕嫌いの藪さんの孫〈祥太郎〉でも食べられる洋風スープ。その味わいは彼女が学校で苛められた日に祖母が作ってくれたおやつを思わせ、やがて桐子はここで彼らと過ごす間だけは素顔をさらせるようになっていく。