前年まで南海で選手兼任監督を務めていた野村氏に翌シーズンから指揮官を務めてくれとオファーしたのだ。野村氏は〈ありがたかった〉と感謝の意を持ちながらも、懸念材料があったために断ったという。
〈優勝の可能性が消えてからの監督は、ゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、ときには遅刻することもあった。金田監督は、それを私がオーナーに密告しているのではないかと疑っていた。直接、問い詰められたこともある。もちろん、身に覚えがないので否定したが、金田さんは納得していないようだった〉
1978年、6年目の金田ロッテは前期5位と低迷。6月の月間成績は0勝15敗4分と散々な成績に終わっていた。後期は持ち直したものの、借金1の3位に。年間成績で4位となり、監督交代となった。金田監督はコンディショニングの大切さを説き、トレーナーの人数を増やすなどチームに革命を起こし、就任2年目の1974年に球団初の日本一に導いたロッテの功労者だったが、6年目の1978年には倦怠期を迎えていたのかもしれない。
野村氏に監督就任を断られたロッテは、山内一弘氏に白羽の矢を立てた。前身の大毎、毎日で首位打者1回 、本塁打王2回、打点王4回を獲得したスター監督は、3年でAクラス2回という成績を残した。野村氏はロッテから西武に移籍し、1980年に引退。9年間の評論家生活を経て、ヤクルトの監督に就任し、1990年代に黄金時代を築いた。
もし野村克也氏がロッテの監督を務めていたら、どうなっていたのか。そんな妄想をできるのも、プロ野球の楽しみの1つかもしれない。