矩随の話を聞いた母は「ありがたいね、そう言ってくれる人がいるのは。どうする? 死ぬのかい? それもいいだろうね。もう辛い思いはしなくていい」と静かに言う。「その代わり、形見に観音様を彫っておくれ。おとっつぁんは観音様を信心してたから、観音様には一切手をつけなかった。おっかさんのために、最期に彫っておくれ」
この観音様を若狭屋が見ると、父の作と見間違える出来。「死ぬ気で彫ったな。先代は観音様を彫らなかったから、真似はできない。だから自分が出てる。お前は本物になったんだ」と若狭屋。それを機に矩随は名人の名をほしいままにする……。
父の真似ばかりしていた倅が物真似を離れて開花したというこの独特な演出は、昨年7月に三遊亭萬橘で聴いたもの。確認すると、やはり一之輔は萬橘から教わったという。ただし、一之輔は若狭屋に「お前はおっかさんを彫ったんだよ」と言わせていて、これは萬橘のオリジナル演出にはなかったと記憶する。
一之輔はこの初演の後、2月3日の練馬での独演会でもこれを演じ、自らの個性を加えて磨きを掛けていた。優れた萬橘演出と一之輔の個性が合体した『浜野矩随』、25分間に濃密な内容が凝縮された名作だ。
●ひろせ・かずお/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接している。『現代落語の基礎知識』『噺家のはなし』『噺は生きている』など著書多数。
※週刊ポスト2020年3月20日号