このところ、世界中でグローバリズムの必要性が盛んに唱えられてきました。日本もその中にあります。でも今回のコロナのパンデミックは、グローバル化による人の移動も原因です。これまで推奨されてきたグローバリズムは縮小し、代わりにナショナリズムが台頭するかもしれない。いずれにせよ、この後の世界をどうするのか、考えなければなりません。
しかし一口に「考える」といっても難しい。実際、教え子の大学生を見ていても、過剰なサービスや過干渉な親に慣れているせいか、自分で考えて動ける力を持っている人は少ない。
「考える」とは成熟することです。自分で考えられない大人を、成熟したとはいいません。考える力を磨く簡単な方法は、外に出ることです。
コロナだから外に出たらだめだって? そんなことはありません。それこそ、どうやったら安全か。三密じゃない場所はどこか。帽子は、水筒は、着替えは…と想定して準備すればいい。それが「考える」ということです。
「なぜ外に出てはいけないのか」と問い直すことも、「考える」ことかもしれません。
考えながら外に出れば、まず体が反応するはずです。そもそも、ぼくらは「意識」を信頼しすぎているんです。自分の意識が体を動かしている、と思っているかもしれませんが、そんなことはありません。人間の場合、意識は本来、外の世界に対応するためにあるものです。
自分の体は自然の一部なんですね。たとえば朝起きる。自分の意識が目覚めさせていますか? そうではなく、体が起きるから意識が戻るのです。眠るのもそう。意識して眠ることはできません。私たちは体という自然に従って生きているにすぎない。
言い方を変えれば、人間は、自分の体すら意識でコントロールできない、ということです。それなのに、すべてをコントロールできると自惚れているから、地球温暖化や公害問題も起きてくる。今回のコロナは、人間には自然をコントロールすることはできない、という教訓でもある。思い通りにいかないことがあったとき、人間は「努力・辛抱・根性」の方法を学びます。
もし私たちがそのことを学ばなかったら、コロナはただの災害になってしまう。おかしな言い回しだが、ぼくは「コロナがあってよかったね」と思えるような社会になることを望んでいます。
※女性セブン2020年6月4日号