しかし、佐藤の社会開発は成功したとは言えない。住宅難は解消できず、狭い住宅は欧州から「ウサギ小屋」と呼ばれた。公害対策も企業活動に厳しい規制をかけることはできなかった。政府の被害者への補償は限定的で、訴訟が長く続くことになる。村井氏はこう言う。
「公害を念頭においた佐藤政権の『社会開発』の一般的な評価は、掛け声倒れというものです。経済開発優先か、公害対策優先かという議論になって、国民の多くは、公害反対の住民運動や公害対策を優先しようとする革新自治体のほうを支持した。しかし、佐藤が経済成長とのバランスをとりながら1970年には『公害関連14法案』を成立させ、1971年に環境庁を発足させた姿勢は評価できると思う」
経済成長を維持しながら公害の解消に取り組む。内政の矛盾に苦しみ続けた佐藤は、沖縄返還という外交成果に活路を見出そうとする。
「非核三原則」の裏で核密約
佐藤と安倍は、外交の柱に領土返還交渉を掲げたことでも共通する。
「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」。佐藤は首相就任翌年の1965年、沖縄を訪問してそう演説し、7年後の1972年5月に沖縄返還を実現させた。
安倍は日露首脳会談後の会見(2018年11月14日)など多くの機会にこう語ってきた。
「領土問題を解決して、平和条約を締結する。私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つ」
だが、北方領土返還のメドは全く立っていない。無論、成果を単純に比較することはできない。米国は沖縄に対する施政権を有していたが、日本の潜在主権を認めていた。それに対し、ロシアは北方領土の領有を主張しており、相手も状況も違うからだ。