佐藤の平和主義についての本音がうかがえるエピソードがある。「プラハの春」と呼ばれたチェコスロバキアの変革運動にソ連が軍事介入した直後(1968年9月)、佐藤は岐阜での講演で「国を守る気概」を訴えた。佐藤の総理秘書官・楠田實の日記によると、3日後、佐藤は公用車の中でこう漏らしている。
「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」(『楠田實日記』)
もう一つ付け加えれば、佐藤は沖縄返還は実現させたものの、同時に行なわれていた日米繊維交渉がこじれ、日米関係は悪化。怒ったニクソンは日本に事前通告なく中国との国交交渉に動き、8月16日にドルと金との兌換停止を発表する。この2つのニクソン・ショックで佐藤は外交的に危機に陥り、経済的にも「いざなぎ景気」は終焉を迎えた。
田中角栄に裏切られて
内政でも外交でも“矛盾の両立”を目指した佐藤の政治理念は非常にわかりにくい。評価が一定しないのはそのためだろう。
だが政治手法については極めて“明快”だったといわれる。それは7年8か月もの長期政権の原動力でもあった。
「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」
そう喝破した佐藤の真骨頂は、「人事の佐藤」と呼ばれる人物眼と、適材適所の人事の巧みさにあった。