一般映画以上/ロマンポルノ未満の「ヤバさ」
ところが1970年代ともなると、1950年代後半の黄金期から地滑り的に凋落していった日本映画の興行不振もきわまって、邦画の雄だった大映が倒産するというまさかの事態となる。そして日本の映画会社としては最も歴史のある日活も、背に腹は代えられずなんとヌードとセックス描写を売り物とする「日活ロマンポルノ」路線を打ち出す。専属のスタア女優たちはこぞって撮影所を去ったので、日活は独自に脱ぐことをためらわない女優を発掘し、育てることになった。
偏見にまみれたこの路線は時に警察の摘発の対象となったりもしたが、わが国の性表現の拡張を通して映画表現の可能性を跳躍させた(同じく興行上の要請からハードな迫真の暴力描写を売りにするようになった東映の「実録やくざ映画」路線も、同様に日本映画の表現に弾みを与えた)。海の向こうでアメリカン・ニューシネマが沸き起こっていたこの頃、まさに日本の映画界も既成の古式ゆかしい美徳や倫理が壊れて、新たな表現の鼓動が聞こえ出した時代であった。
そして新星・秋吉久美子が招かれた日活の青春映画は、ロマンポルノで稼いでいる日活が春休みや夏休みにいつもよりいくぶん多めの予算で(老舗映画会社の良心として!)製作する「一般映画」であって、「ロマンポルノ」枠ではなかったのだが、秋吉はたまに記者から「ロマンポルノの新人女優」と勘違いされて困ったという。ただ、確かに性表現を軸とする成人指定の「ロマンポルノ」作品ではないものの、当時の日活には一般映画といえどもクリーンな東宝や松竹とは違った「ヤバさ」があった。
それは秋吉の言葉を借りれば「一般映画以上/ロマンポルノ未満」の「ヤバさ」で、これはもちろん性(的)表現を物差しにしてはいるが、なんとなく物語や雰囲気全体が反体制的であったりニヒルであったり、アウトロー志向であったことも含んでいる。またアウトロー志向といっても、東映が打ち出していたような「ヤンキー的」な不良性感度ではなく、もっと「ヒッピー的」な内向と逸脱がお家芸だったと思う。しかしこれは早熟な文学少女だった秋吉にとっては格好のデビューの場であったはずだ。
その理由はもちろん物語やモチーフの好みや似あい方もあるが、なんといっても秋吉の飛び道具であるヌードを演技のひとつとして披露できたからである。これが東宝や松竹の映画で遠慮がちに脱いだり、東映の映画で荒っぽく脱がされたり、ではいけないのだ。日活の「一般映画以上/ロマンポルノ未満」のやさぐれた青春映画で、ごくあたりまえに、生きていることの証しとしてバストをあらわにして銀幕で呼吸することが、秋吉にはぴったりだったのだ(実はこれに先立って秋吉は、幻のデビュー作である『十六歳の戦争』でも新鮮な美しさ溢れる裸像を見せているのだが、これもまたごくごく自然な生のままのヌードであった)。
これはどういうことなのか。かつて「メディアはメッセージである」と言った学者がいたが、秋吉の場合も裸像は見世物ではなく「ハダカはメッセージである」のだった。といっても、物語上の情感を背負って脱いでいるとか、役柄になりきって熱演のハンコとして「いい脱ぎっぷり」を見せているとか、そういうことではない(わが国のマスコミには女優が裸も辞さず熱演すると演技がひと皮むけた、みたいな見方があったが、若き日の秋吉はそういう方程式をみごとにすり抜けている)。