2013年3月の「日本アカデミー賞」授賞式で全身がんを告白した樹木さん
「だって、言ったってしょうがないじゃない。あなたもまだ子供だったし、手術してバタバタバタッと対処するのも嫌だから。見て見ぬふりして、どこまでいけるかっていうので10年きたのよ」
樹木さんは2005年の乳がん切除後に、不自由さを訴え続けていた。植松さんの「切らずにがんを消す」放射線治療の考え方は、彼女にとってしっくりくるものだった。植松さんが続ける。
「最初に診察したとき、希林さんは『ステージ4』だとおっしゃっていましたが、手術の時点で乳がんそのものは小さくてステージ1でした。ただ、リンパ節転移がたくさんあったので、前の病院の医師に『いずれはステージ4になると思う』と説明されたのが頭に残っていたのでしょう。
ご本人は『転移は5か所ある』と言っていましたが、しばらくの間続けていたホルモン剤が効いたのか、はっきり見えていたのは2か所。『残りの3か所は小さすぎて、違うところに放射線を当ててしまうといけないから、やめておきましょう』と説明し、2か所にだけ放射線治療を施しました。正直に彼女の病状を説明し、話し合っていくなかで、ぼくのことを信用してくださったのかもしれません」(植松さん)
その後の検査では異常がない状態が続いたが、2010年5月の検査で肋骨や副腎、リンパ節への新たな転移が見つかる。それからはピンポイント照射でがんを消し、またがんができてはそれを消し……の繰り返しになった。
治療を存分に楽しんでいた
がん治療というと、精神的にも肉体的にも苦しいというイメージを持つ人が大半だろう。だが、樹木さんは放射線治療のために鹿児島を訪れることを、存分に楽しんでいた。
「いつもひとりで来て、1泊8000円の観光ホテルに宿泊。でも、ホテル側が気を使ってグレードの高い部屋を用意するので“なんだか申し訳ないわ”と話していました。ホテルからはタクシーか、30分に1本の市内バスで病院へ。バスに乗るときは帽子をかぶって、オーラを完全に消していましたね。病院での放射線治療は毎日30分弱なので、それ以外の時間は映画を見たり、本を読んだりして過ごしていたようです」(植松さん)
市街地に出かけることもしょっちゅうで、鹿児島市の有名観光スポットの大観覧車にも乗りに行っていたという。
「観覧車に一緒に乗ったことはありませんけど(笑い)、希林さんは『食事に行きましょう』とクリニックのスタッフ全員を誘ってくださったりもしました。そのうち2人で時々お酒を飲んだりするようにもなりました。ぼくは患者さんとそういう交流をすることはないので、希林さんは数少ない友達のひとりになりました」(植松さん)
患者のなかには「鹿児島じゃなくて、東京で治療を受けられるようになればいいのに」と言う人もいたようだが、樹木さんの考えは反対だった。