唯一の苦労は、職場で目立たないようにすることだ。やはり東大卒の頭脳は警備の現場では突出しており、事あるごとに地頭のよさが目立ってしまう。例えば、「自衛消防技術」という施設警備員が持っておくべき資格の認定試験を受験したときのこと。S氏にとっては簡単な筆記と実技の試験だったが、一緒に受験した職場の同僚の半数は不合格になった。そんな試験を入社したばかりで経験も浅いS氏がストレートで合格したものだから、上司から「Sくん、君優秀だねぇ」と突かれてしまい、「学歴詐称がバレたらどうなることかとひやひやした」そうだ。
他にもある。職場である駅地下街の勤務者を対象に、働くうえでの業務知識、フロア情報、近隣施設の情報を100問のテスト形式で問う社内プロモーションが行われたときのこと。全体で数百人、S氏の職場からは10人ほどが受験していた。S氏はその試験中に、自分が満点を取ってしまったことを確信したという。満点を取ってしまうと皆の前で表彰されるため、わざと3問間違えて答えを記入し97点にしておいたが、それでも職場ではダントツ。同僚がざわついて、やはり焦ったそうだ。
苦労の内容が世間一般とはズレているようにも思うが、東大卒の学歴がバレないように本人は必死なのだろう。“苦労話”をしながら、S氏は真顔で心底面倒くさそうな表情をしていた。
田舎で農業を営んでいるご両親は、息子が生きているだけでも「よし」としている節があるそうだ。「俺は地位も名誉も金もとっくに諦めているよ。結婚して子どもをつくるとか、たまに小遣いをあげるといった人並みの親孝行も、申し訳ないけどもう無理だね。親もそのあたりは薄々気付いていると思う」とS氏は語った。
今の生活における目下の悩みは自身の健康だ。頸椎椎間板ヘルニアは小康状態、十二指腸潰瘍も患い、ここ最近は物が見えにくく緑内障の気があるという。昼夜を問わず机にかじりついて漫画を描いてきたことや、警備員として不規則な生活を送っていることの影響か、40代に入って体に一気にガタがきてしまった。
「うちは両親とも高卒だから、息子が天下の東京大学に入ったときは誇らしかったはずなんだよな……」そう呟いた後、「今は、とにかく健康を維持して、せめて親よりも長く生きてあげることだけが目標だね」とS氏は話した。それが、貧しくとも精神的なストレスが無い生活を選んだ東大卒業生の生きる目標なのだろう。
【池田渓】
1982年兵庫県生まれ。東京大学農学部卒、同大学院農学生命科学研究科修士課程修了、博士課程中退。フリーランスの書籍ライター。共同事務所「スタジオ大四畳半」在籍。近著に『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』(飛鳥新社)がある。