当時のノムさんはチーム作りに熱心でしたね。引退が近づいている主力が多かったというのもあったでしょうが、「よそから選手を引っ張ってきた、つぎはぎだらけのチームはいらんのや」と言って、生え抜きを育てることにこだわっていました。「このチームは育てんとアカンのや」とも言ってました。
僕は2年目に打点王を獲って、3年目からレギュラーで使ってもらいました。本当は2番で使いたかったようですが、僕には無理だった。でも、そこそこ打つというので小細工の要らない3番を打たせてもらいました。ノムさんからは、「俺の前にランナーに出てくれさえすればええ。それがお前の仕事や。間違ってもホームランは狙うな。安打だけなら3000本は打てるからな」と言われて、大振りすると怒られました。
でも僕は「ホームランの打ち損ねがヒット」という考えでやっていたので、考えを改めてヒットを狙うということはせず、通算本塁打で王さんとノムさんの間に割り込んでやるという目標を決めた。だから、ことあるごとにノムさんには怒鳴られました。周囲には「門田はワシが言う反対のことばかりする」とボヤいていたそうで、そのおかげで頑固者だとか偏屈なんて言われてつらいこともありました。僕はそんなに体が大きいわけではないから、振り回さないとボールを飛ばせない。バットも重いものや長いものを使ったりして、ノムさんに対抗しました。そんなことをしていたら「三悪人」になってしまったんです(笑い)。
南海時代のノムさんは、ヤクルトや楽天の監督になったノムさんとは別人でしたね。あの頃は、僕が反抗すると向こうも本気でかかってきましたから。上京して指導者になった姿を見て、「この人は東京でコメディアンになってしもた」と思ったくらいです(笑い)。
それでも、この選手にはどこまで言ってもいいか、それ以上はダメかをちゃんとわかってましたね。僕については、「絶対にアメはやらん」と言っていたようです。藤原満さんのことは「アメをやらな働きよらん」と言ってましたから、誰にアメをやるか、ムチを振るうかよく考えていたのでしょう。