東京大学在学中の1965年にデビューし、1972年に学生運動指導者だった故・藤本敏夫さんと結婚。2002年に肝臓がんで藤本さんが亡くなるまで(享年58)、千葉県鴨川市に設立した有機農業を実践する『鴨川自然王国』と東京を行き来しながら、3人の娘を育て、歌手活動を続けてきた。
「娘たちはみな家族を持ち、気づけば私には孫が7人。いちばん下はもうすぐ小学生。次女で歌手のYaeと長女は鴨川で、三女は沖縄、私は東京と離れています。
孫が小さいうちは、娘たちから『子供を預かって』と言われれば飛んで行って面倒を見たり、孫を連れて東京に遊びに来ていたのが、最近は誰も来なくなってしまって。自分がもう必要とされなくなったように感じていたんです」
加えて4月に入り、娘たちからは「おとなしく東京にいて」と「STAY東京」を言い渡された。
振り返ると、これまで家族のため、誰かのためにと動くことが好きだった。おいしいものがあれば食べさせてあげたい、面白いことがあれば一緒に楽しみたい。それが元気のもとでもあった。しかし、ステイホーム中はそれが叶わない。そんな加藤を支えたのは日々のルーティンと母の教えだった。
「3年前に101才で他界した母の言葉を思い出したんです。あれは母が91才のとき。元気な母で、それまでは『長く生きてもしょうがない。老婆になるだけよ』なんて言っていた母が、あるとき『100才の婆さんになっても全然うれしくないけど、100年生きた人と思えば誇らしいわね』って。『そう考えると、100才まで生きることにワクワクしだした』って言うんです。
実際、そこから母は自叙伝を書き始めて、『ハルビンの詩がきこえる』という本を出版したんです。あぁ、考え方ひとつなんだなと」
それまで当たり前に会えていた家族と離れ、初めての“ひとり暮らし”。不安な思いの一方で、「いずれ迎える余生のための準備」と思うとやる気が出てきたという。
「私の場合は子供も離れ、孫も離れた世代。もう誰の世話もしなくていいけど、口出しもできない。娘たちからは『東京から出るな』と言われるし(笑い)、そりゃ寂しいですよ。正月でさえ顔を合わせられないなんてね。同じ年代のかたたちもすごく寂しいと思いますよ。不安? そんなのしょっちゅう。
でもね、だったら私は私で生きればいいのねと、自分の軸足をひとりで暮らすことに置いて邁進すればいいんだなと考えを変えたの。いずれ仕事ができなくなって時間ができたときのために、いまのうちに好きなことを作ればいいと思ったんです」