自分の力で生きていけない子供が、生活保護などの社会保障に頼るのはまったく申し訳ないことではないはずだが、なぜかそう考えてしまった。抱かなくてよい罪悪感のようなものに捕らわれてからというもの、桂さんは登校することにも気後れするようになった。何度か、役所の職員や教師が自宅を訪ねてきては、施設に入る選択肢はないかと桂さんに勧めてきたが、罪悪感がそれを阻んだ。今であれば、桂さんは半強制的にでも、施設に入れられたのかもしれないが、30年前は桂さんのような境遇の子供を救済するという社会意識自体が乏しかったのである。
元々、勉強もスポーツもできないわけではなかった。運動会では学年対抗のリレーにも選出されたし、算数は今でも大好きだ。友達も少なくなかったが、急に引っ込み思案になった桂さんは、それまで仲良くしていたクラスのボス格の標的にされた。
「でも、いじめられるだけで済んだのは幸いでした。着ている服もよく見るとボロボロでしたし、みんないじめられているほうに気をとられて気づかず、最後まで貧乏は隠し通せたからです。高学年になる頃、クラスの女子から『なんか臭い』と言われて、もう隠せないと思い学校に行くのをやめました。生活保護者が多く暮らす九州のある市営住宅に暮らしており、家には風呂がなかったためでしょう。当時はどの家庭にもあった固定電話すら、わが家にはありませんでした」
人生で初めて他者から評価された
学校から足が遠のいたまま放置され、中学校には一度も通うことなく卒業した。卒業後は父親の知人のツテをたどり、近くの食肉加工工場で仕事を始める。時給は当時の最低賃金をも下回っていた可能性がある600円。それでも、自分で金を稼げる、という事実が嬉しく、朝5時から夕方3時まで働き、志願して残業も毎日やった。
「日給は6000円くらいで日払い。自宅に帰り半分を親父に渡し、残りは貯金していました。別に何か目的があるわけではなく、生きて行くのに必要だと思ったからですね」
転機が訪れたのは、桂さんが19才の頃。それまでは手書きだった工場の工程表を、パソコンで作ることになったのだ。中高年ばかりの工場で、ただ若いというだけで、桂さんが担当に任命された。
「パソコンとワープロの違いも知らなかったので(笑)、本屋さんに行って本を買い勉強しました。ウインドウズ95が入ったパソコンでしたが、電源の入れ方すらわからないところからスタートです」