〈私は十四才のとき、高等小学校から陸軍の幼年学校を受験しました。家が貧乏で、受験に必要な参考書を買うこともできませんでした。一冊の参考書を手に入れたときの喜びは、五十七才になった今日まで忘れることはできません。夜、寝るときに、両足の親指をひもで縛って寝ました。夜半にその両足が痛くなって目をさますと、頭から水をかぶってねむけをさまし、朝まで勉強しました。そのように苦労して、幼年学校の試験に合格したときの喜びは、一生忘れることができません。〉
〈このからだを、死に神の胸もとにぶつけてやろうと、恐れずに前進すると、死に神がたじたじとして不思議に道は開けるものです。避けようとしたり、他人に頼もうとしたら、おそらく私は生きてはこられなかったでしょう。諸君にお勧めすることばは、「人よりもよけいに苦しみ、人よりもよけいに鍛えよ」ということです。〉(いずれも『中学コース』1959年10月号より)
こうした“熱血”指導は、陸軍時代に部隊の兵士や士官候補生らに対しても行なわれた。戦時中は、むしろそうした辻政信の“熱さ”に共鳴した若い兵士らが、辻に心酔し、戦場へと向かっていった。
陸軍内にあっては、そんな辻の過剰さを利用しようとしていた面もあるという。辻を批判的に見ていた参謀の一人が、こんな言葉を残している。
「辻君って若い者には好かれる。で、辻君のおるところはハナ息が荒い。だから荒っぽいことをやってもらうには、辻君は便利がええんです。[中略]むしろ役に立ちすぎるんだな。やりすぎるんですよ。役に立つ男ではあるけれど、使う場所が悪いんでね」(稲田正純作戦課長/読売新聞社編『昭和史の天皇』)