「ちあきさんはよく、『歌手は代理であり、ひとつの媒体である』とおっしゃっていました。作詞家や作曲家の思いを、聴いている人にどのようにして歌を通して伝えるか、それをとても大切にされていたんです」(古賀さん)
そんな思いがあったからだろうか、彼女は「歌を物語として演じる歌手」として高く評価されている。
「それには作詞家の吉田旺さんの存在が大きい。吉田さんの描く“情景が見える詞”だからこそ、ちあきさんの神がかり的な表現が最大限に発揮されたと思います」(石田さん)
ちあきが『喝采』で日本レコード大賞をとった1972年に、海援隊として全国的な活動を始めた武田鉄矢は、そのときの光景を次のように振り返る。
「衝撃的でしたね。あの曲は、死んだ人とある歌手の恋を歌っていて。歌謡曲で死者がテーマの歌を歌ったのは、彼女が初めてだと思います。歌謡曲で死者をテーマにするのは忌み嫌われていましたからね。
当時、フォークでは『死んだ男の残したものは』(友竹正則)や『花はどこへ行った』(キングストン・トリオ)などの反戦歌が歌われ、歌詞も死を彷彿させるようなものが多かった。
その新しい風を受けて、歌謡曲の世界でも、作詞家や作曲家がものすごく複雑な構成の歌をつくるようになった。それをきっちり歌いこなし、豊かな表現力で、見事に世に送り出したのがちあきさんだと思うのです」(武田)
卓越した技巧と情感あふれる歌唱力で、彼女は唯一無二の存在になっていく。
「劇場」気さくだが、プロ意識の高い人
ちあきは「劇場型歌手」といわれ、その歌の世界は「まるで4分間の映画のようだ」と称されることが多い。その類稀なる表現力は、どのようにして磨かれていったのだろうか。
「あるとき、彼女に『傷がいっぱいあった方が、表現者としてはいいですよね?』とぼくが聞いたら、『そんなのない方がいいに決まっているじゃない』と、言われたことがありました。
彼女自身は、子供の頃にご両親が離婚しているし、たくさん心に傷があったと思うんです。だからこその言葉だったのかもしれませんね」(古賀さん・以下同)