二軍で投げていた頃は、ON(王貞治・長嶋茂雄)が元気なうちに1球でもいいから後楽園球場で投げたいという一心で練習に励んだ。
「3年目のオフにコーチから“(米フロリダ州での)ベロビーチキャンプに行きたいか”と聞かれ、“行きたいです”と答えた。それでオフには新潟に里帰りもしないで、真面目にウエートトレとかをやった。それでベロビーチキャンプ連れて行ってもらい、1971年はずっと一軍だった。開幕カード(対広島)の第2戦では、2点ビハインドの場面で7回表に敗戦処理として登板したんです。その直後、7回裏に味方が4点を取って逆転。それで次のイニングは誰か別のピッチャーが投げるだろうとアンダーシャツを脱ぎかけたら、川上さんから“お前がまだ行くんだよ”と言われて、9回まで投げて初登板初勝利を飾れたんです。
そこからその年は10勝をあげることができて、新人王を獲ることができました。とはいえ、同じ新人王でも年によってダントツの成績だったか、競争相手がいたかなどでランクがあると思います。僕の年のはランクは下のほうでしょうが、巨人のV7への貢献が評価されたことには胸を張れると思っています。僕の活躍がなければV9は達成できなかった、ということで(笑)」(関本氏)
新人王を獲得したことで、「現役時代はもちろん、引退してからもそれが“肩書き”となりますから、やっぱり気分はいいですよ」と話す関本氏だが、その“条件”については、改正の必要があるのではないかとも問題提起する。
「たまたま僕の時代は、一軍で試合に出ていなければ何年生でも資格があった。今は打者にとっては一軍で60打席以内という基準ですが、これも改正しないとおかしなことになるんじゃないか。たとえば、代走専門で一軍の試合に出て、盗塁王のタイトルを獲得した選手がいたとしても、翌年まだ新人王の権利があるということになる。近鉄にいた藤瀬(史朗)のように代走のスペシャリスト(1シーズン代走25盗塁の日本記録保持者)として年間を通じて出場しても、翌年に新人王になれるかもしれないというのは、ちょっとおかしいでしょう」
どこまでが“新人”なのか、様々な議論がありそうだ。