阿部が捕鯨人生を歩みはじめた当時、日本の捕鯨は大きなターニングポイントを迎えていた。
戦前から世界各国が競い合うようにクジラを乱獲した。結果、クジラの数が激減する。1970年代にはいると、クジラは守るべき特別な動物という意識が世界中に浸透していく。そして1982年、IWC(国際捕鯨委員会)が、商業捕鯨の一時停止を決定したのである。
それから6年後、阿部が新人乗組員として捕鯨という仕事を心身にたたき込まれていた1988年、日本の捕鯨は、それまでの「商業捕鯨」から「調査捕鯨」へと形を変える。
良質な鯨肉を生産し、利益を上げることが目的の商業捕鯨に対し、調査捕鯨はクジラの生態を調べたり、数などを把握したりするために行う。調査で捕獲されたクジラの肉は、あくまでデータ採取後の“副産物”と呼ばれた。
調査捕鯨は、科学的なデータを積み重ね、IWCに商業捕鯨再開を認めてもらうための決断でもあった。しかし戦後の捕鯨を支えてきた数多のクジラ捕りが船を下りた。捕鯨はもう長くない。関係者もそう思っていたのだ。そんな状況で、30年間、調査の最前線を支えてきた阿部は「意地だった」と語る。
「クジラ資源が減っているという外圧で(商業捕鯨を)やめさせられた。でも、我々は調査を通して資源量の回復を証明し、クジラ資源を絶対に減らさない捕鯨の方法を確立したんです」
調査を通して、クジラの数が回復している事実を証明し、生態や繁殖数、食性などを解明した。そのうえで、クジラの再生産力を活かしながら捕鯨を続けるにはどうすればいいのか。クジラを守りながら捕る――日本は調査捕鯨を通して、その方法を模索していたのである。
しかしその主張は理解されなかった。阿部たち乗組員は、自然保護団体から過激な妨害活動を受けながら調査を続けた。
「クジラが増えたことを証明したら、次は『かわいそうだから、捕鯨はダメだ』と。国からの補助もあったとはいえ、現場の我々も意地になって、調査を続けてきた。海外の主張に反論するだけでなく、私たち自身も捕鯨を続けていくうえで、納得がいく答えを出したかったです」
IWCや反捕鯨国が新たな疑問を呈するたび、日本は新たな調査結果をもとに答えを出してきた。だが、最後まで日本の考えと反捕鯨国の主張は平行線を辿り続けた。