都築コーチの指導でメキメキ頭角を現した羽生は、2004年に初めて出場した全日本ノービスB(小学3〜4年生のクラス)で優勝し、9才で金メダルを獲得した。同年にはフィンランドにも遠征して、タンペレサンタクローズ杯ノービスA(小学5〜6年生のクラス)で優勝した。11才のとき、宮城テレビから「天才スケート少年」として取材を受けた際、将来の夢を聞かれた羽生は、ここでも「オリンピック金メダル!」とはっきり答えている。
躍進する彼を、家族は一丸となって支えた。世の中には数多のスポーツが存在するが、フィギュアスケートという競技の金銭的負担はトップクラスといわれる。レッスン費用に加え、スケートリンクのレンタル費用、スケート靴や衣装代、それらのメンテナンス代などで、1人につき年間100万円はかかってしまう。
特別に裕福だったわけではない羽生家にとって、負担は決して軽くなかった。しかし、羽生の才能と「五輪優勝」という夢を信じ、羽生家は家賃5万円の県営住宅に住み、試合の衣装はすべて母親が手作りした。姉は大学受験を機に自分が選手として大成する夢を諦めて、弟のサポートに徹するようになった。
(第3回に続く)
※女性セブン2022年2月17・24日号