身をもって、ソ連侵攻の恐ろしさを経験した宝田さんには現在のウクライナの状況がとても他人事には思えないという。
「ロシアのやっていることをニュースで見たときは『だから言っただろう!』と思わず声をあげてしまいました。プーチンの顔を見るたびに憎しみの感情が蘇えってきます。私は多感な時期にソ連軍の残虐極まりない行為を目の当たりにしたので、どうしてもあの国が好きになれないんです」
当時のソ連の指導者、スターリンは約50万人の日本兵を収容所に移送し、8月14日に日本がポツダム宣言を受諾した後も強制労働を行わせた。
「武装解除された関東軍の兵隊さんが、次々と貨物列車で北の方へと運ばれて行きました。私はその中にもしかしたら出征した兄がいるんじゃないかと思って、危険を冒して見に行ってしまったんですね。『兵隊さーん!』と叫んだときのことです。いきなり、自動小銃を持った毛むくじゃらのソ連兵が駆け寄って来て、タタタタタ! と撃ってきたんです。のたうち回りながら、やっとの思いで家に帰りましたが、腹は血だらけで、体は火箸を押し付けられたように熱い。あとでわかったことですが、ソ連軍は国際法で禁じられている殺傷力の高いダムダム弾を使っていたんです」
赤チンで応急処置を施したが、撃たれた傷が癒えるはずもない。
「学校も病院も全部占領されていたので、まともな治療は受けられませんでした。元軍医さんのところに行って、ベットに手足を縛られたまま、裁ちバサミで腹をジョキジョキ切られた時の不気味な音は今も忘れられません。麻酔なんかあるはずもなく、痛いなんてもんじゃないですよ。失神で気を失い、その後も3か月くらいは痛みで眠れない日々が続きました」
恐怖に怯える日々を過ごしたが、占領下で食べるにも困り、ソ連兵相手に靴磨きやタバコを売って糊口をしのいだ。女性達も悲惨な状況に置かれていたという。
「いつソ連兵に襲われるかわからないですから、若い女性も断髪をして、風呂敷をかぶって過ごしていました。それでもある日、近所に住んでいた主婦の方が囚人部隊に捕まって、裏の方に引きずられて行ってしまったんです。どんなに『助けて!』と叫んでも、誰も手出しはできません。ようやく憲兵を現場に連れて行ったときは、すでにことのあと。本当にかわいそうでした」
日本への引き揚げ船が出港を開始したのは46年。飢えと病気の恐怖に怯えながら、宝田さんは約2か月をかけて祖国に帰った。
「帰国後、日本で見た満開の桜並木は涙が出るほど美しかった。軍国少年だった頃は、大きくなったら海軍航空隊に入って北方を守ることが夢だったんです。予科練の制服には7つのボタンが着いていて、そこに描かれた桜と錨に、子どものころはたまらなく憧れたものです。ただ、いまは桜は平和の象徴であるべきだと思います」