佐野史郎さんはがん治療の最中「母より先に逝けない」と話した(撮影/小倉雄一郎)
「がんの治療の前に、まず腎臓の状態を良くしなくてはいけない、ということで、即入院してステロイド剤の点滴を開始しました。ところが、腎臓の数値はどんどん改善していったのに、熱が下がらない。一時は40度にまで上がってしまいました。免疫力が落ちていたのでコロナも恐ろしいし、付き添いも面会も禁止でしたから、1人で病院のベッドで意識朦朧としながら、もうオレはここまでか、と思いました。しんどくてたまらず、いっそ死んで楽になりたいと思ったほどでしたね」
命の危険もある敗血症を起こしていたのだ。
「でもそのとき、『いやいや、いかん、まだ生きなきゃ』と思い直しました。母が90歳で存命なので、母より先に逝けない、という思いもありました。でも、一番はただ『生きたい』という思い。その思いが内側から湧き上がってきたのです。何か特別なことをしたいというより、もう一度家に帰りたい、うちのご飯が食べたい、風呂に入りたい、という単純な思いでした」
そんな本能ともいえる強い思いが支えとなり、佐野さんの身体は厳しい状態を耐え、乗り越えた。当初の予想より1か月長くかかったものの、2か月後の7月10日に退院することができた。
退院後、治療は次の段階に
「2か月間、ほぼ寝たきり状態でしたから、退院してすぐは体力が落ちていて仕事ができる状態ではありませんでした。でも、骨髄腫細胞を減らす治療薬(免疫調節薬など)を飲みながら日常生活を送るうちにだんだん回復し、翌8月には内藤剛志さんとの『今野敏サスペンス 警視庁強行犯係 樋口顕』(テレビ東京)などのドラマの撮影もこれまで通りしていました」
治療薬の反応も良く、骨髄腫細胞は順調に減っていった。そこで9月、治療の次の段階として、正常な血液を造る機能を回復させるために1週間ほど入院し、造血幹細胞(骨髄のなかで血球を作り出すもとの細胞)を採取。仕事がひと段落ついたところで11月に再入院し、無菌室で抗がん剤を投与後、造血幹細胞を投与(移植)した。自分の造血幹細胞を自分に移植する、いわゆる自家移植を行ったのだ。