この「空気」を明確に言ってくれたのは彼だけだったが、誰もが言わずともこの「空気」を気にしていたのは明白だ。「誰かに指摘されたら」という意味合いばかりを耳にした。思えばこの2年、コロナ禍のバッシングはライブハウス、パチンコ屋、夜の街、旅行業者(Go To)、居酒屋、若者、ワクチン未接種者(義務ではない)と遷り、いまは「マスクしない人」なのだろう。重ねるが、日本政府はマスクを義務化していないし屋外、ましてや人の密集していない広い場所や運動中のマスクを強要もしていない。それどころか「暑ければ外せ」である。
日本は空気(いわゆる世間、他人の目、「同調圧力」とも)に支配される国であるという山本七平の『「空気」の研究』はコロナ禍にもっと見直されてもいいと思うが、岸田首相ですら、遊説中はマスクをしないほとんどの国の「空気」を読んでマスクをせず、国内ではマスクをしている。それが悪いとかではなく、国家権力者すら「空気」というこの国の本当の支配者には逆らえないのだなあと思う。
「あなたはマスクしないのね、私はするわ」「私はマスクしないけど、あなたはするのね」という「個」ではなく「私はマスクをしてるんだからお前もしろ」「私はマスクをしないからお前もするな」と他人に強要するこの「全体」の空気、日本は無宗教と嘯く人がいるが「空気教」は絶大である。そして御本尊「空気様」が真に日本を統治する。またその「空気」を目的外利用する輩もいる。マスクに限らず、「その場の空気」「空気読め」など思い当たる方も多いだろう。今年の博多どんたくで話題となった穴あきマスクによる吹奏楽団の路上演奏ではないが、もはやマスクが目的になっている。マスクが主目的で、もはや本質は関係なくなっている。参議院選挙を7月に控え、政治家すら与野党とも日本を支配する空気という「絶対権威」(山本七平)には及び腰だ。
マスクを義務化した覚えもない(というスタンス)日本政府は5月12日、「屋外で2メートル以上の距離を確保できている場合はマスクを外すことを推奨している」というこれまでの通達を再度、松野博一官房長官の会見として述べた。しかし相変わらず外では「マスクしろ」と言われるし、世間では国なんかより空気が絶対になっている。厚生労働省の専門家組織座長、脇田国立感染症研究所長がその前日の11日、「屋外で距離をとって会話もないところでマスクをする必要はない」と述べたにも関わらずだ。マスクに関する初動の不手際とそれを反省もせず放置した結果でもあるが、だからこそ日本政府がもっと強いメッセージを出すべきだろう。極端な話ではなく、したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。世界中で通用している、ごく当たり前の話である。
夏はもうすぐそこ。暑くなくとも尋常でない湿度の日本。現場も子供たちも、心身ともに限界である。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。