さらに、この使節団には、護衛艦として咸臨丸(かんりんまる)という船が一緒について行っています。司令官は軍艦奉行の木村喜毅(きむらよしたけ)31歳。艦長は38歳の勝麟太郎(かつりんたろう)、すなわち勝海舟(かいしゅう)です。それから唯一、英語の通訳ができた34歳のジョン万次郎もいました。さらにこの船には、27歳の福沢諭吉が乗っていました。福沢諭吉はその後もヨーロッパやアメリカに派遣されていますが、この万延元年の渡米が最新の「西洋事情」を学ぶ最初の機会でした。
この使節団の200人近い人間を選んだ責任者は、大老の井伊直弼(いいなおすけ)です。井伊は「安政の大獄」で多数の大名・志士などを弾圧し、さらに遣米使節団が出発した直後の「桜田門外の変」で暗殺されたため、日本史の授業では悪いイメージで語られがちです。しかし、実際は鎖国政策には限界があるとして、開国した後の日本を背負って立つような人材を集めて、欧米で学ばせるべきだと考えていた人物です。その意味では、井伊直弼は以後の日本のために非常に大きな功績を果たしたと言えます。
結局、日本が明治維新後に、欧米に追いつき追い越せということで瞬く間に近代化することができたのは、これらの使節団を通じて優秀な若者たちが“本場”に渡り、目標を「見える化」してモチベーションを高めていけたからです。こうなると、日本人は能力を発揮するわけです。
人材輩出する「私塾」の必要性
さらに、江戸時代の後期から幕末にかけて、各地方で私塾や藩校での教育が盛んになっていったことも、近代日本の人材育成という意味では非常に重要です(図表3参照)。
たとえば、九州豊後の日田にあった広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)。ここは漢学を教える私塾で大村益次郎(おおむらますじろう)などが育っています。大村益次郎というのは、明治政府で最初に近代陸軍の基礎をつくった人物(兵部大輔〈ひょうぶたゆう〉=陸軍次官)です。靖国神社の入り口のところにその功績を称えて大きな銅像が建っていますが、咸宜園の後に大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で蘭学を学び、医学や兵学を修めて塾頭になったほどの秀才です。
その適塾では、先述した福沢諭吉も門下となり、やはり後に塾頭を務めました。
また、長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)はシーボルトが開いた私塾で、蘭学や医学を教えていました。
そして有名な松下村塾も長州・萩にありました。吉田松陰のもとで、高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)、明治政府の重職を担った伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)といった門下生が学んでいます。