日露戦争においてユダヤ人勢力が大日本帝国を支援するきっかけとなったロシアのポグロムも結局根底にあるのは、この「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもいい」(現代では、この一節は「血の呪い」と呼ばれている)である。つまり、「あいつらは子孫も責任を取ると言っていた」、それならば「略奪してやれ」などという形で迫害を受けたのである。
しかし、革命によってフランスではすべてが変わった。形の上では差別が無くなり、ユダヤ人も国家公務員になれるようになった。ところが、これに反感を持っていたのがキリスト教会関係者である。また保守的な軍人のなかにも、国家の安全にかかわる部分にユダヤ人が参入してくるのを苦々しく思っている連中もいた。アルフレッド・ドレフュス大尉はユダヤ人である。そこで、陸軍内部で外国への機密漏洩事件が起こったとき、まともな捜査も無く「あいつが犯人に違いない」ということになり、いい加減な裁判(軍法会議)であっという間に有罪になり、無実のドレフュスは終身刑になった。
ところが、国家機密の漏洩は国家にとって重要な案件であるため、その後も捜査を続けていたフランス陸軍情報部は本当の情報漏洩者つまり真犯人を突き止めた。しかし、陸軍大臣を頂点とする陸軍上層部は真犯人逮捕に待ったをかけ、この一件をすべて闇に葬ろうとした。さすがにそれはまずい、と考えた内部告発者がいたのだろう、情報が外に漏れ大騒ぎになった。そこで、陸軍は真犯人のフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐を軍法会議にかけたのだが、なんとスピード審理であっという間に無罪が宣告されたのである。
ゾラが立ち上がったのはこのときだ。パリの新聞『オーロール』に「我、告発す」という長文の抗議文を寄稿し、陸軍の不正を糾弾してドレフュスの無実を訴えた。この事件の第一の教訓は、これほど不正が明確な案件にもかかわらず、ドレフュス大尉の無実が確定するまで十年以上かかったことだ。しかも、その間真犯人は国外逃亡してしまい、結局罰を受けなかった。
また糾弾派は長い間「ドレフュスを有罪とした証拠を出せ」という形でこの裁判の不正を追及したが、軍は国家安全にかかわる機密情報が含まれているとして資料の公開を拒否した。ところが、最終的に資料が公開されてみるとそこには機密情報などまったく無く、もちろんドレフュス有罪の証拠など影も形も無かった。つまり、機密情報ということで軍あるいは政府の秘匿権を安易に認めると不正の温床になることがわかったのである。これが第二の教訓だ。
ゾラにはなれなかった蘆花
さらに、これがなぜ「世界史の流れを変えた重大事件」なのかと言えば、あるユダヤ人に「結局、ユダヤ人差別は決して無くならない」という強烈な思いを抱かせたからである。その男の名をテオドール・ヘルツル(1860~1904)という。ハンガリーのブダペストで生まれ、オーストリアに移住しジャーナリストとなった。皮肉なことに、彼は若いころユダヤ人はユダヤという出自にこだわらず積極的に在住している国々に同化することをめざすべきだ、という考え方の持ち主だった。
ところが、その彼がドレフュス事件の取材で自由平等の国であるはずのフランスにも根強く残る反ユダヤ主義を身をもって体験した結果、その考えが百八十度変わったのである。つまり、ユダヤ人は在住国への同化をめざすべきでは無い。そんなことをしてもキリスト教に基づく偏見は絶対に根絶されない。つまりユダヤ人が真の自由と平等を勝ち取るためには、ユダヤ人の国家を建国するしかない。そのように考えるようになったのだ。その最初の著書というかパンフレットが、『ユダヤ人の国─ユダヤ人問題の現代的解決法』(1896)である。
この考え方をシオニズム(英語ではザイオニズム)、その運動家をシオニストと呼ぶ。なぜそう呼ぶかと言えば、その建国予定地が当時はパレスチナと呼ばれていた、かつて古代イスラエル王国があった場所だったからである。唯一の神であるヤハウェがユダヤ民族に与えた「約束の地」イスラエル、それを象徴するのがダビデ王そしてソロモン王が宮殿と神殿を築いたシオンの丘である。
ヘルツルは各国に分散して在住しているユダヤ人たちに呼び掛け、第一回シオニスト会議も開催した。ただしこの運動は、ヘルツルの段階では夢物語に近いものだった。ヘルツル自身がそうであったように、在住国で一定の地位を築いているユダヤ人も大勢いた。シオニスト会議は各国に散らばっているユダヤ人同士の連帯を深める意味はあるものの、古代イスラエル王国にはローマ帝国が入植させたパレスチナ人が住んでいることもあり、この計画は現実的では無い、というのが大方の評価であったからだ。