1994年2月、首脳会談後、共同記者会見をする細川護熙首相(左)とクリントン大統領(AFP=時事)
値上げ反対が共産党とれいわ、院内会派の有志の会のみになった理由
それはこの、自賠責保険の政府および財務省による借り入れ(あくまで繰り入れだが、本稿では便宜上使う)の最初の合意となった約30年前、1994年からの歴史を紐解くと見えてくる。実のところ自賠責のお財布化は昨日今日始まったわけではなく、長い歴史の中でごまかしを重ねたあげくの「お返しするのは無理」である。昨今、旧統一教会および勝共連合という冷戦の亡霊がいまだに跋扈していたことに注目が集まっているが、その歴史を紐解くことがこの国の「失われた30年」の闇を暴くのと同様に、この自賠責保険にも日本の自動車行政と国民に対する政官癒着の欺きが見えてくる。
1990年代、歳入が予算の見込み額を下回る状態、いわゆる「歳入欠陥」に陥った。そこで積み立てられた自賠責保険およそ2兆円が当時の大蔵省に目をつけられた。そして1994年2月、バブル崩壊による財政逼迫のため、という名目で、自動車損害賠償保障事業特別会計(当時)を大臣間合意で一般会計に繰り入れた。赤字国債の発行を避けたかった思惑もあったのだろう。あくまで「繰り入れ」であり、当初は利息分も含めて繰り戻されていた。
この合意時の政権は東京佐川急便政治献金事件や共和汚職事件、ゼネコン汚職事件などで自民党一党体制(宮澤喜一内閣)が崩壊したのちの細川護熙連立政権。細川首相自身の日本新党を始め、武村正義の新党さきがけ、自民党を割った羽田孜らの新生党に村山富市の日本社会党と大内啓伍の民社党、江田五月の社民連、中村鋭一の民主改革連合、そしてそれまで29年間万年野党だった石田幸四郎の公明党という8党による寄せ集め政権だった。懐かしい名前が並ぶが、細川と村山を除けばみなこの世にいない。
当時、1994年2月の大臣間合意は新生党の藤井裕久大蔵大臣と社会党の伊藤茂運輸大臣による合意である(両名とも故人)。つまるところ旧自民党と旧社会党による合意である。しかし細川政権は1994年4月に崩壊、64日間の羽田孜内閣を挟み、自民党が社会党と新党さきがけを誘う形で政権与党に返り咲く。見返りは社会党から内閣総理大臣を出すとして村山富市が首相となった。この間、1994年度と1995年度に大蔵省による運輸省からの自賠責の借り入れが行われている。大蔵省、政治の混乱にうまく乗じたと言っていいだろう。
借入額は総額で1兆1200億円。それでも当初は、大臣間合意の覚書によれば、2000年に全額返済されるはずだった。
しかし2003年度以降、返済はうやむやとなった。21世紀、自社さ政権はすでに自公連立政権となり、大蔵省はそれ以前の1998年、歌舞伎町にあった中国人女性オーナーのノーパンしゃぶしゃぶ店接待で官僚7人が逮捕されたのを契機に解体されて財務省に、運輸省も国土交通省と名を変えたが期限を2000年とした返済は守られず、新たに自民党の谷垣禎一財務大臣と石原伸晃国土交通大臣との間で覚書が交わされた。またしばらくして小泉純一郎内閣による規制緩和により政府再保険制度が廃止され、自賠責再保険特別会計の累積運用益は「自動車事故対策計画に基づく被害者保護増進対策事業」と「保険料の負担軽減を通じたユーザー還元としての保険料等充当交付金の交付」に使途が改めて決められた。
肝心の自賠責の積立金は一般会計に繰り入れられたまま、結局約6000億円が未返済のまま今日まで来ている。覚書は幾度となく交わされているが、交わされるたびに満足な返済もないままに先送りされ、2010年12月には民主党の菅直人内閣において野田佳彦財務相と馬淵澄夫国交相が「2017年度まで」返済という覚書を再度交わしている。しかし民主党政権は崩壊、その後の安倍晋三内閣(第2次)時代まで、麻生太郎財務相によって事実上の「返還拒否」状態となった。