しかし最近はさすがに少なくなったが、昔は大石の主君「浅野長矩はバカ殿だ」と言うと、いろいろなところから文句がきた。「なにがバカ殿だ。浅野長矩は名君だ」という抗議である。しかし儒教本来の考え方で言えば、浅野をバカ殿と定義すればするほど大石の忠義は光り輝くので、じつは「浅野はバカ殿」だと決めつけることは「そんなバカ殿になんの見返りも無いのに命を捧げてまで忠義を尽くした大石は、最高の忠臣だ」と褒めそやしているのと同じなのだ。
ところが、日本人にはこれがわからない。逆に「大石のような素晴らしい忠臣の主君なのだから、浅野は名君だった」というような、非論理的な反応をする。合理的に考えればわかることだが、本当に名君だったら一時の怒りに我を忘れて傷害事件を起こして藩を潰し、多くの家臣と家族を路頭に迷わせたりはしない。
では、なぜ日本人は浅野を名君だと「思いたがる」のか? それもやはり第七巻で説明したところだが、怨霊信仰があるからである。浅野は無念の死を遂げた。その無念の死を遂げた人間を愚か者呼ばわりすることは、怨霊信仰の原則に反する。むしろまったく反対のこと、つまり浅野は名君だと言って「鎮魂」しなければならない。しかし、ここでおおいなる矛盾が生まれる。
浅野が一時の短慮で自分の家を潰したのはまったくの事実である。しかしそれでも「名君」としたいなら、「名君だったのだが自制心を超えるほどのイジメを加えた『極悪人』がいた」と強弁するしかない。それが吉良上野介義央なのである。いわゆる『忠臣蔵』にあることはあり得ない芝居のウソで、吉良はまったくの無実であることは『逆説の日本史 第十四巻 近世爛熟編』に詳述したところだからここでは繰り返さないが、じつはいま、西園寺公望では無く桂太郎内閣時代の大問題を語っていることにお気づきだろうか。
日本最高の忠臣は大石内蔵助では無く、楠木正成である。これは近代以前の日本人にとっては常識中の常識だ。では、その楠木正成の主君後醍醐天皇はどういう人物であったか? これも第七巻以降何度も説明したことだが、後醍醐天皇はきわめつきの暗君であった。能力的にはきわめて優秀だが、わがままで自分勝手で私欲の塊である。しかも「反省」という言葉は彼の辞書には無い。
これも第七巻を読んでいただければわかることだが、そもそも後醍醐天皇が起こした戦乱の時代を描いた軍記物のタイトルが『太平記』、現代語に訳せば「平和物語」であるのも、私は後醍醐天皇が最後に遺した言葉に由来し、作者はありったけの皮肉を込めてタイトルとして採用したのだと思っている。
しかし、日本人は怨霊信仰の影響で「正成は最高の忠臣だから、後醍醐天皇は名君であった」と言いたがる。だが、実際にはそうでは無い。では、どうすればよいか? 吉良義央のような「極悪人を製造」することだ。それが足利尊氏であり、室町将軍家であり、その足利にバックアップされた北朝なのだ。だからこそ、大逆事件をきっかけに大論争になった南北朝正閏論において、歴史の事実とは逆にむしろ平和を乱した欠徳の君主である後醍醐の子孫の南朝が「正統」とされたのだ。
こうした思想的潮流を認識してこそ、たとえば南北朝正閏問題の分析の冒頭で紹介した、幕末の足利三代木像梟首事件、つまり足利氏の菩提寺等持院から尊氏、義詮、義満の木像の首が持ち去られ三条河原に晒された事件も(多くの歴史事典に書いてあるように)時の徳川将軍家への嫌がらせという単純なものでは無く、深い思想的背景を持った重大事件だということがわかるだろう。
西園寺公望は、こうした思想的潮流を阻もうとしたのである。
しかし失敗した。
(文中敬称略。第1366回へ続く)
※週刊ポスト2023年1月1・6日号