1985年、軟式庭球全国大会に出場した高校2年生の田中敬子(後列中央)
サーブを打つ高校2年生の田中敬子
軟式テニスで「インターハイ出場」
現在のICUの一般入試も、250点満点で合否が決まる「A方式」と、1次選考で合格したら2次に進める「B方式」に分かれるなど異風な試験で知られる。「A方式」の英語はリスニングが用いられる上、加えて事前に資料を読み込み、それにまつわる設問に答える方式で、それはこの時期もそうだった。
「映子さんから事前に聞いていたんだけど、普通の試験とは違うのよ。まず英語の資料を渡されて、それを30分くらい読み込む。その後で、その資料から問題が出るというやり方。確か全文英語だったと思うなあ……。だから、受験勉強のやり方がよくわからない。難しいのよ。『あー、これはまずい』って」
数週間後、根岸の田中家に大学から通知が来た。開封すると「不合格」とあった。
「準備期間が足りなかったと思った。どのみち無理だったと思う。自覚はあった。と言うのも部活を頑張りすぎてたから。2年のときなんて実はそんなに勉強してなかったし、ICUは、それ用の受験勉強をしないとまず無理。だから不思議とショックはなかった。だって、しっかり準備すれば何とでもなるとも思ったから」
軟式テニス部に所属していた敬子は、2年生のとき伊勢市で行われた「日本ソフトテニス連盟主催・全日本高校選手権(インターハイ)」に神奈川県代表の女子個人戦に出場し、2回戦敗退に終わっている。それ以降は、早めに引退をして受験勉強に専念していたつもりだったが、そうはなからなかったということだ。
本来なら別の私大を選択すべきところだった。担任も父親もそう言ったし、国立を視野に入れてもよかった。しかし、敬子はICUにこだわった。「外交官になるにはここしかない」という強い信念があったからだ。

