2013年8月、広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限について議論する松江市教育委員会の内藤富夫委員長(左から3人目)ら(時事通信フォト)

2013年8月、広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限について議論する松江市教育委員会の内藤富夫委員長(左から3人目)ら(時事通信フォト)

『はだしのゲン』と原爆を「なかったこと」にしようとする意図はないのか

 以上が筆者の父の被爆者としての生涯と、筆者が息子として聞いたままの「思い」である。この、我が家の原爆にまつわる「すべて」を聞かされたのは中学の時だった。幼少期は「姉以外は原爆で死んだ」と聞かされていた。父の兄が轢死したこと、母が井戸に身を投げたことは伏せられていた。今回の広島市教育委員会の「小学生に理解させるのは難しい」と同様の判断を父もしたのだろう。それに、彼の思いからすれば「原爆で死んだ」は嘘ではない。

 教育委員会が『はだしのゲン』の深い部分、ある意味で深すぎて子どもにわかりにくい部分も含め、限られた時間の授業教材として難しいという判断に一定の理解はできる。この父の話に例えれば「なぜ他人の骨を拾ってきたのか」「許可もなく駅前で行商するのはよくない」「電車に轢かれたことが被爆とどう関係があるのか」「母親が自分から子どもを残して死ぬなんて」「勲章は嬉しくないのか」といった質問や意見があったとして、現場すべての教員がすべての児童、それも低学年に説明するのは確かに難しいかもしれない。教育委員会の審議で意見として出た「浪曲はいまの児童になじみがない」というのも、私の父の話にある「ロバのパン屋」だろうか。

『はだしのゲン』は原爆の悲惨さを伝えると同時に、ときに強く、ときに醜い人間の生きざまを描いた漫画であり、文学である。刺激的な場面も多く、後半はイデオロギーの問題も含め複雑化する。各児童の発達の度合いや理解力がさまざまとするなら、あくまで「小学3年生」の教材と限定するなら、別のわかりやすい被爆体験記に置き換えることは致し方ないようにも思う。作中における天皇の扱いも当時の被害者の素朴な憎しみとは別に、これまたイデオロギーの問題がつきまとう。大人でも揉める話だ。

 しかし筆者の懸念はそこになく、『はだしのゲン』と原爆そのものを「なかったこと」にしようとする意図は本当にないのか、という点にある。かつて2012年、島根県松江市の小中学校における『はだしのゲン』閉架措置および貸し出し制限や、2013年の千代松大耕泉佐野市長の命による『はだしのゲン』学校図書館回収騒動のように、「間違った歴史認識」「差別的な表現が不適切」として『はだしのゲン』を読ませなくするだけでなく、原爆の悲惨さと愚かさ、そして当時を生きた人間の「たくましさ」と「したたかさ」まで「なかったこと」「恥ずべきこと」として消されてしまうことは避けなければならない。

『はだしのゲン』に限らず、水木しげる『総員玉砕せよ! 』や松本零士『音速雷撃隊』(戦場まんがシリーズ)、手塚治虫『紙の砦』、白土三平『泣き原』など、どれも戦争の悲惨さとともに人間の善と悪を描いている。その「悪」の部分が都合の悪い向きもあるのだろうが、悪を知らなければ善もまた知り得ない。善が善のままでなく、善が悪になることも、悪が善になることも戦争だ。報告通りの「総員玉砕」にしたいがために切腹や突撃を命じる上官たち、特攻する青年のために片道切符の出撃をするパイロットたち。醜さも美しさもある、それが人間だ。

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