平和記念公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」
戦時中は北支方面軍などで勤務したが、戦争末期には朝鮮での勤務を望んだという。日本の敗北を必至と見て、独立の暁にはその動きに参加するつもりだったとも言われる。だがこの希望は認められず、1945年6月に広島の第二総軍司令部に教育参謀として着任する。赴任からわずか2か月後の8月6日、広島に原爆が投下された。
この日の朝、李グウはいつものように騎乗で第二総軍の司令部に出勤する途中、市内中心部の福屋百貨店の付近で被爆した。その後も馬を西の方向に走らせたが、本川にかかる本川橋の西詰で倒れ込んでしまう。皇族に準ずる王公族である李グウが被爆したとあっては一大事である。原爆によって広島の街が壊滅状態となるなかで、司令部は捜索班を繰り出してその行方を探した。見つかったのは、6日の夕刻。急ぎ広島湾の似島に設けた救護所に収容した。
宮内庁の宮内公文書館にはこの時の状況を報告した文書が保管されている。原爆で大打撃を受けた第二総軍司令部に代わり、広島の宇品にあった船舶司令部の司令官から東京の参謀総長宛に翌7日に届いた特別緊急電報には、<公殿下本六日夕刻船舶司令部ニ無事収容申シグ 顔面、頭部、両手、両膝ニ火傷セラレアルモ御軽傷ニテ御心配申上グル模様ヲ拝セズ>とある。
置き去りにされた被爆者
ところが、それから5時間もしないうちに届いた特別緊急電報には、<御経過御良好御機嫌モ麗シク拝セラレシニ御容態急変アラセラレ七日五時五分遂ニ薨去遊バサル 洵ニ恐懼ニ堪ヘズ>と、李グウの死を伝えている。混乱ぶりが窺えるが、大勢の市民や軍人が次々と犠牲となるなかで、十分な治療には限界があったのかも知れない。
なお、李グウの御付武官に吉成弘中佐という軍人がいた。吉成中佐は6日の朝は出勤に同行せずひと足先に司令部に出勤していた。水虫がひどく馬に乗れない状態だったためだという。そのため難を逃れることができたが、責任を痛感したのであろう。8日に李グウの棺を送り出した後、救護所の前で自決している。
李グウの遺体は飛行機で京城(現在のソウル)に運ばれ、葬儀は終戦の日の8月15日に東大門そばの運動場で行われた。