甲子園を沸かせたスターは今…(共同通信社)
甲子園史上最高投手の呼び声が高いのが、西日本短大付(福岡)を全国制覇に導いた森尾和貴だ。星稜・松井秀喜(現ヤンキースGM特別アドバイザー)の敬遠騒動が社会問題になるほどの反響を呼んだ1992年夏の甲子園。森尾は圧巻の投球を見せる。5試合を1人で投げ抜き4完封。失点は準々決勝の北陸戦の9回に失った1点のみで、防御率0.20と抜群の安定感だった。
「ワインドアップから力強い直球を内外角にきっちり出し入れする。スタミナも抜群だった。当時から完成されていて、伸びしろに疑問を呈する評価がありましたが、プロでも十分に勝てる素材でしたよ。今の投手でいえば、村上頌樹(現阪神)に近いですかね。打者を抑える術を知っているから大崩れしない。プロ入りの意思を示していたら、ドラフト2位までに消えていたと思います」(パ・リーグのスカウト)
森尾は社会人野球・新日鉄八幡に進むが、右肩痛を発症。生命線の制球力が失われたが、野球部が解散するまで11年間プレーした。
2005年夏。甲子園連覇を飾った駒大苫小牧の2年生エース・田中将大(現楽天)と決勝戦で投げ合った「スーパー1年生」も、強烈なインパクトを与えた。京都外大西(京都)の本田拓人。手元で浮き上がるような球質の直球に打者のバットが空を切る。惜しくも優勝に手が届かなかったが、スケールの大きい投球は大きな可能性を感じさせた。3年夏にも甲子園に出場。
将来を嘱望されたが、近大に進学以降は暗転する。半年も経たずに退学すると、2009年に入団した関西独立リーグ・明石レッドソルジャーでも目立った活躍ができず。チームが2011年に活動休止となり、退団した。その後、不祥事を起こしている。
NPB球団の元編成担当は複雑な表情を浮かべる。
「本田は印象に残る投手の1人だった。田中将大が注目された大会で、田中より凄い直球を投げていて。2年生以降は少し伸び悩んだ印象があったけど、実はドラフトで下位指名を検討していたんだよ。あの直球は天性のモノ。大学進学して力をつければ、4年後は間違いなくドラフト1位候補になると思ったが、すぐに中退して……。せっかくの才能を自ら手放してしまった。もったいないね」
プロ入りしなかったから失敗ではない。3選手ともは思い描いた野球人生ではなかったかもしれないが、試練を受け止めて乗り越えようと努力し、完全燃焼した。
