「久万オーナーも“ええアイデアや”としながらも、評論家だけでは食べていけないだろうと、阪神が給料を出すことを条件にNHKの評論家をすることに同意していました。ところが岡田は、仰木監督から“野球人はユニフォームを着てなんぼや。脱がんほうがええ”とアドバイスされたということで、クビを縦に振らなかった。
岡田は自身の思いを甲陽園(西宮)の老舗料亭で久万オーナーに直訴し、それで久万さんの考えが豹変した。直訴の席では私も一緒でしたが、久万さんから“お前(野崎氏)と星野で、岡田を追い出そうとしているんやろ”と怒られました。理不尽だとも感じましたが、それで岡田が阪神に残ることになったんです」
その後、2003年に一軍内野守備走塁コーチに昇格した岡田氏はサードベースコーチを務めることになった。そこで星野監督の懐刀として知られる島野育夫ヘッドコーチから教えを受け、指導者としての考えを深めていった。同年に阪神はリーグ優勝を果たすが、星野監督の体調が悪化。野崎氏が振り返る。
「星野にはもっと長く監督をやってもらう予定だったが、体調が優れず、血圧が上がってベンチ裏で何度も吐いたりしていた。それで主治医からドクターストップがかかったんです。お嬢さんから“母も早く亡くなった。せめてお父さんだけは長生きしてほしい”と直訴され、勇退を決断したのです」
そうした経緯があって岡田氏は一軍内野守備走塁コーチから監督に内部昇格。1年目は多くのコーチ陣が入れ替わったこともあって4位と低迷したが、2年目の2005年にリーグ優勝を果たしたのだ。
「2001年オフにNHK解説者へ転出していれば、2004年の監督就任はなかったのではないか。星野監督の明大野球部の後輩で、監督広報として信頼を得ていた平田(勝男)さんが後任の監督になっていたと思います。阪神フロントのなかには、遠慮なく思ったままのことを素直に口にする岡田さんを煙たがる向きもありますから。
2008年、13ゲーム差を逆転されるシーズンを最後に辞任した岡田監督だが、その後も毎年のように再登板の噂が流れながら、和田豊、金本知憲、矢野燿大といった監督にバトンがつながれることになった。今回も阪急阪神HDの角会長が動かなければ、二軍監督からの内部昇格で平田監督が誕生していたといわれている」(在阪スポーツ紙編集委員)
様々な巡り合わせがあり、その末に「アレ」の歓喜の瞬間が訪れたのである。