坂口氏は東京の下町、荒川区で生まれ育ち、母に連れられ6歳で入会。当時の下町の風景を、坂口氏自身が学会系の雑誌にこう語っている。
〈私の小学校時代といえば、昭和30年代の初めで、東京にもまだ野原があり、家の前には路面電車が走っていたころ。今のように塾などもなくて、毎日、真っ黒になって遊んでいました〉(「パンプキン」1991年1月10日号)
下町の子供の牧歌的風景だが、大人たちは貧困と隣り合わせ。苦しい暮らしに救いを求めるように、坂口氏の一家は創価学会に入会した。自宅は活動拠点の一つとなる。
〈みな貧しくて悩みだらけでしたからね。そういうのを大人に交じって見聞きし、毎週日曜日には未来部の会合に出席し、革命に生きた偉人の話に感銘をうけたり〉(同前)
受動的だった信仰が自ら選び取るものに変わったのは小学校5年のころ。生身の池田氏との出会いがきっかけだった。
〈私も手をあげて、少年部員会(当時)で聞いていたジャンヌ・ダルクのことを質問しました。先生は即座に「火あぶりの刑になって不幸な一生だった。あなたのほうがずっと幸せなんです。妙法のジャンヌ・ダルクになっていきなさい」と話された。お帰りになるときも、「さよなら! ジャンヌ・ダルク」とあたたかく握手してくださった〉(「第三文明」2003年1月号)
これが人生を決めた。
難解な教義のテキストを暗誦して何度も読むようになった。大学卒業後、聖教新聞記者だった時期もある。そして結婚して2人の男の子を育てた。
さまざまな発言の中には選挙を「闘争」と捉えた猛々しい言葉や棄教者を指弾する表現があり、違和感が否めない。だが、「非エリート」であろうとする姿勢には、筆者も共感を抱いた。
〈婦人が数人集まって、そのうちの一人が深刻な悩みを抱えていれば、その悩みを我がこととして同苦し、解決の方向に努力する。学会活動を続けていくうちに、そうするのが当たり前になっていくわけです。だからこそ、いわゆる普通の主婦が、自然体で平和運動に参加できる〉(「第三文明」1998年7月号)