難しいのは「移動」よりも「静止」すること

 一人で歩くことが増え、大きく変わったのがスピードだ。

 ゆっくり歩くべきだと感じた場所では、とことんゆっくり歩く。移動速度、通信速度、処理速度と、何でもスピードアップが求められる現代社会。ところが忍び猟で求められるのはスピードダウンだ。

 猛烈な勢いで文字を打ち込んでいた右手の指をスマートフォンから解放し、木肌や地面を丹念に触る。高速でスクロールされる文字列から顔を上げ、木々が作り出す微妙な陰影にひたすら目を凝らす。するとその中に、今までは見えていなかった、じっと身を潜める鹿のシルエットが浮かび上がってくる。

 究極のスピードダウンとは静止することだ。きちんと、止まる。これがどれだけ難しいか。元々せっかちな僕にとっては、1時間歩き続けるより、1分間完璧に身動きをしないほうが困難だ。しかし、ハンターの気配を察知した鹿は、5分でも10分でも微動だにしない。

 忍耐力をはじめ、体力や感覚の鋭さなど、あらゆる面で全く敵わない鹿をどうやって仕留めるのか──。

 いくらお金を積んでも無理だ。学歴や社会的地位も一切関係ない。問われるのは、体力、観察力と想像力、そして最後は気力だ。人間力が根底から試される真剣勝負だからこそ、ますますのめり込む自分がいる。

動物を知れば知るほど感じる「同化する喜び」

 鹿の足跡を自身の足で辿ってゆく。足跡が立ち止まっていれば僕も立ち止まる。なぜそこで止まったのかを考える。そこから何が見え、聞こえ、嗅ぎとることができるのか。

 鹿になったつもりで、気が済むまで時間をかける。すると、真新しい食痕(しょくこん)や、前の週にはなかった、雄鹿が角の先を研いだ跡を木の幹に発見し、欣喜(きんき)する。

鹿になったつもりで痕跡を追い、居場所を突き止める。その先には「同化してゆく喜び」があるという(撮影:大川原敬明)

鹿になったつもりで痕跡を追い、居場所を突き止める。その先には「同化してゆく喜び」があるという(撮影:大川原敬明)

 問いを突き詰めても、明確な答えが出ない場合も多い。仮に扉が開いたとしても、そこには常に、また新しい問いがあるだけだ。

 それでも多種多様なフィールドサインからひたむきに鹿の気持ちを推し量る。人間の唯一のアドバンテージである想像力を徹底的に駆使する。

 その結果、自分が思い描いていた通りの場所に彼らを見つけた時の喜ばしさといったらない。たとえ撃てなかったとしても、偶然に現れた鹿を獲るよりよほど嬉しい。

 銃を手に入れれば、まずは撃ちたい。狩猟免許を取れば、まずは獲りたい。それが徐々にできるようになってくると、その先にあるのは、純粋に彼らを知り、彼らと同化してゆく喜びだ。

 目の前に残された、一筋の足跡。それは、分厚い本の中から千切り取られ、舞い落ちてきた1ページに過ぎない。時には単語にさえなっていないこともあり、判読は困難を極める。

 しかしそこに記されている言葉の断片は、今、主人公が歩いている章の結末を探り出すための拠り所となる。彼らが残してゆく些細な痕跡の全てが、新しい物語が誕生する予兆であり、それが僕を虜(とりこ)にして離さない。

関連キーワード

関連記事

トピックス

全国でクマによる被害が相次いでいる(AFLO/時事通信フォト)
「“穴持たず”を見つけたら、ためらわずに撃て」猟師の間で言われている「冬眠しない熊」との対峙方法《戦前の日本で発生した恐怖のヒグマ事件》
NEWSポストセブン
韓国のガールズグループ「AFTERSCHOOL」の元メンバーで女優のNANA(Instagramより)
《ほっそりボディに浮き出た「腹筋」に再注目》韓国アイドル・NANA、自宅に侵入した強盗犯の男を“返り討ち”に…男が病院に搬送  
NEWSポストセブン
ラオスに到着された天皇皇后両陛下の長女・愛子さま(2025年11月17日、撮影/横田紋子)
《初の外国公式訪問》愛子さま、母・雅子さまの“定番”デザインでラオスに到着 ペールブルーのセットアップに白の縁取りでメリハリのある上品な装い
NEWSポストセブン
ドジャース入団時、真美子さんのために“結んだ特別な契約”
《スイートルームで愛娘と…》なぜ真美子さんは夫人会メンバーと一緒に観戦しないの? 大谷翔平がドジャース入団時に結んでいた“特別な契約”
NEWSポストセブン
山上徹也被告の公判に妹が出廷
「お兄ちゃんが守ってやる」山上徹也被告が“信頼する妹”に送っていたメールの内容…兄妹間で共有していた“家庭への怒り”【妹は今日出廷】
NEWSポストセブン
靖国神社の春と秋の例大祭、8月15日の終戦の日にはほぼ欠かさず参拝してきた高市早苗・首相(時事通信フォト)
高市早苗・首相「靖国神社電撃参拝プラン」が浮上、“Xデー”は安倍元首相が12年前の在任中に参拝した12月26日か 外交的にも政治日程上も制約が少なくなるタイミング
週刊ポスト
相撲協会の公式カレンダー
《大相撲「番付崩壊時代のカレンダー」はつらいよ》2025年は1月に引退の照ノ富士が4月まで連続登場の“困った事態”に 来年は大の里・豊昇龍の2横綱体制で安泰か 表紙や売り場の置き位置にも変化が
NEWSポストセブン
三重県を訪問された天皇皇后両陛下(2025年11月8日、撮影/JMPA)
《季節感あふれるアレンジ術》雅子さまの“秋の装い”、トレンドと歴史が組み合わさったブラウンコーデがすごい理由「スカーフ1枚で見違えるスタイル」【専門家が解説】
NEWSポストセブン
俳優の仲代達矢さん
【追悼】仲代達矢さんが明かしていた“最大のライバル”の存在 「人の10倍努力」して演劇に人生を捧げた名優の肉声
週刊ポスト
10月16日午前、40代の女性歌手が何者かに襲われた。”黒づくめ”の格好をした犯人は現在も逃走を続けている
《ポスターに謎の“バツ印”》「『キャー』と悲鳴が…」「現場にドバッと血のあと」ライブハウス開店待ちの女性シンガーを “黒づくめの男”が襲撃 状況証拠が示唆する犯行の計画性
NEWSポストセブン
全国でクマによる被害が相次いでいる(右の写真はサンプルです)
「熊に喰い尽くされ、骨がむき出しに」「大声をあげても襲ってくる」ベテラン猟師をも襲うクマの“驚くべき高知能”《昭和・平成“人食い熊”事件から学ぶクマ対策》
NEWSポストセブン
オールスターゲーム前のレッドカーペットに大谷翔平とともに登場。夫・翔平の横で際立つ特注ドレス(2025年7月15日)。写真=AP/アフロ
大谷真美子さん、米国生活2年目で洗練されたファッションセンス 眉毛サロン通いも? 高級ブランドの特注ドレスからファストファッションのジャケットまで着こなし【スタイリストが分析】
週刊ポスト