ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その11」をお届けする(第1415回)。
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現在この稿では、一九一六年(大正5)の一月に首相・大隈重信が爆弾を投げつけられたが危うく難を逃れた時点を述べているが、ここに至るまでの「大正の四年間」の出来事を時系列で整理しておきたい。
私は歴史の一部(自分の専門)しか見ていない歴史学者に対して、全体を見通せる歴史家だと自負している。そのため、歴史の記述は孫文について書くとすると孫文がどこで生まれどのように育ち、最終的にどうなったかを踏まえて書いている。その結果、数十年の先のことまで書いてしまうことがある。これは歴史の理解を深めるためには仕方の無いことなのだが、唯一の欠点として読者が時系列的に物事を把握しにくいという問題がある。
孫文のライバル袁世凱が皇帝を名乗り失敗して失意のなかで死んだのは、まさにこの一九一六年の話なのだが、読者の記憶としては「ずいぶん前に読んだな」かもしれない。最初から事実だけを羅列し、「年表を丸暗記するのが歴史だ」などという教育しかしない歴史学者なら話は簡単なのだが、あくまで歴史を総合的に立体的に理解してもらうことを念願としている私には、この書き方しかできない。したがって、時々は読者の混乱した頭を整理してもらうために時系列に物事を並べて、あらためて振り返ってもらうという作業が必要になる。これから「大正最初の四年間」について、それを始めたい。
まず、大正時代というのは言うまでも無く明治天皇が崩御し新帝(念のためだが、この時点では大正天皇とは呼ばない)が即位、いや正式な即位式は前回述べたように一九一五年(大正4)十一月に挙行されたので、新帝が践祚(仮の即位)をした段階で始まった。明治帝が崩御したのは一九一二年七月三十日だが、この日から大正元年は始まった。ちなみにこの年、まだ明治四十五年だった年の一月一日、中国では南京に革命政府が誕生し孫文が臨時大総統になっている。
日本ではこの年から大正政変が始まるのだが、そのきっかけは西園寺公望内閣の上原勇作陸相が単独で辞表を叩きつけたことだった。陸軍は二個師団増設を要求していたのだが、閣議で否決されたからである。陸軍は「軍部大臣現役武官制」を悪用し、内閣が二個師団増設を受け入れないなら新しい陸相は出さないという態度を示し、自分たちの要求を無理やり押しとおそうとした。
もちろんその背後には、国防予算こそ最優先に扱われるべきという「陸軍の法王」元老・山県有朋の意向があった。絶望した西園寺は内閣総辞職に踏み切った。陸軍の要求を飲んでしまえば、憲政の形が崩れるからである。だから首相のなり手はいなくなった。首相になっても陸軍の圧力に屈せざるを得ないことは目に見えていたからだ。山県は困惑し、結局当時内大臣となっていた桂太郎を無理矢理引っ張り出して総理大臣にした。このころの常識では、総理大臣を務めた人間が内大臣になることは引退の花道だった。それが政界の慣例であったのだが、窮地に陥った山県はそれを無視せざるを得なかったのである。
これに対して、陸軍の横暴を糾弾する声が当然上がった。先鞭を切ったのは、慶應義塾大学出身の実業家やジャーナリストの集まりである交詢社だった。福澤諭吉の女婿である福澤桃介の主導で「閥族打破・憲政擁護」というスローガンが作られ、全国に広まった。この年の十二月開かれた東京・歌舞伎座における「第一回憲政擁護大会」には政界からも尾崎行雄や犬養毅らが参加し、運動はおおいに盛り上がった。
明けて一九一三年(大正2)、憲政擁護運動に追い詰められた桂内閣は崩壊し、代わって政党政治を確立したい元老・西園寺公望の意向もあって、政党内閣では無いものの開明的な海軍大将・山本権兵衛が組閣の大命を受けた。こうして成立した山本内閣では「軍部大臣現役武官制」を廃止し、文官任用令も改正した。現在のアメリカのように官僚の試験に合格していなくても、たとえば警視総監になれる道が開かれたのである。