陽の聖子、陰の明菜と比較されることも多かった中森明菜
このように二人は真逆に見えることから、「陽の聖子、陰の明菜」のような言われ方をすることがありました。私はお二人の全盛期を知っていますが、クラスの女子は聖子派と明菜派に分かれていて、概して男性ウケを気にするタイプ、要領のいい子は聖子派で、ちょっとツッパっていたりして、情は厚いけれど立ち回りの下手な女子は明菜派でした。今と違って歌番組の多い時代でしたし、ヒットチャートのトップを争っていた二人の歌は私たちの日常に溶け込んでいて、特にファンでなくても両人の歌を歌えるという人は多いと思います。
今は大人になった、当時の少女たちの共感や憧れ
このようにして、二人の歌を口ずさみながら成長した少女たちは、大人になると、程度の差はあれ、仕事や恋愛、家族との関係で悩みを抱えることになるでしょう。何でも打ち明けられる人がいればいいのですが、いつもそういう相手がいるとは限らない。悩んでいる自分を恥じたり、弱い自分を他人に見せたくないという人もいるはずです。そんな時、何かのきっかけで明菜さんの歌を耳にすると、音楽の力というのはすごいもので、痛みを知らなかった“あの頃”に一気に引き戻されるような気持ちになると同時に、はがゆいとすら思った明菜さんの不器用さや孤独を「わかる」とわが事のように感じるようになるのではないでしょうか。
自分の中の弱さに気付くということは、強さへの憧れを呼び起こすことにつながるでしょう。私の周辺では、年齢が上がるにつれ、聖子さんも明菜さんも両方好きという人が増えてきましたが、人生経験が増えるにつれて、実際にそうするかどうかは別として、結婚しても仕事をあきらめない、いつまでも恋していたいという聖子さん的な貪欲さ、思いつめて交際相手の家で衝動的な行動を起こす明菜さん的な暗さの両方が理解できるようになるからではないかと思います。人気歌手と国民的スターの違いは、「この人は私と同じだ、この人の気持がわかる」と思わせられるかにかかっているのではないでしょうか。 明菜さんに限らず、一世を風靡した歌手が復帰するとき、必ず見た目や声が全盛期のあの頃と違うという声が上がります。けれど、若い時と少しも変わらない人なんて一人もいないですし、「自分の中に明菜がいる」と感じる人にとっては、明菜さんが歌うこと自体に意味があると思うのです。明菜さんを応援することは、自分を応援すること。ですから、休業期間が長かろうと、声の調子が悪かろうと見限ることはしないし、神がかったパフォーマンスを見せてくれるのなら、惜しみない拍手を送るのだと思います。
