道は誰が切り開いたのか?
では、人種差別撤廃案はどのように葬られたのか? 日本外務省の公式記録などを参考に情況を見てみよう。一九一九年(大正8)四月十一日にパリで開かれた国際連盟(準備)委員会の席上、日本の次席代表でこの人種差別撤廃案成立にもっとも活躍していた牧野伸顕が、連盟規約前文に「各国民の平等及其の所属各人に対する公正待遇の主義を是認し」という文言を挿入するという「修正案」を提案した。
じつは、それ以前にも牧野ら日本代表は連盟規約条項の一項目として人種差別撤廃を盛り込もうとして根回しをしていたのだが、とくにイギリスやオーストラリアの反発が強かったため不可能だとあきらめ、最終的に条項そのものでは無く前文に、しかも「人種差別撤廃」という直接的な文言では無く「弱めた」表現を挿入する、という妥協案にしたわけである。
いわば日本人にとってギリギリの譲歩だったのだが、それでもイギリスは反対した。インドなど有色人種の国家を植民地化し、多くの有色人種を「二等市民」として扱っている(たとえばインド人は英軍の兵にはなれるが、将校にはなれない)大英帝国としては、国家崩壊につながる危険があると見たからである。
しかし、日本もこれ以上は譲れない。インチキ左翼歴史学者が主張するように、この人種差別撤廃案提案が「山東権益欲しさ」なら、ここで譲ってイギリスに「貸し」を作り山東権益の確保に努めただろうが、そうしなかったのはこれを本当に実現したかったからである。
この国際連盟の委員会の議長は、「国際連盟結成呼びかけ人」とも言うべきアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンだったが、ウィルソンは一貫してイギリス支持だった。なぜかと言えば、ウィルソンは世界平和確立のためなにがなんでも国際連盟を設立することが第一で、そのためには各国が離反しないように努めるのが議長としての最大の責務だ、と考えていたからだ。
イギリスの反対を押し切れば、イギリスは連盟参加を取りやめるかもしれない。また、ウィルソンにとっては「地盤」アメリカにも問題がある。アメリカでは現在でも黒人に対する人種差別問題があるが、この時代は公然と人種差別撤廃に反対する連邦議員などもいた。アメリカが国際連盟に参加するためには、これは国際条約で連邦議会の批准(承認)が必要だから、議会の「ご機嫌取り」が不可欠なのである。
ウィルソンとしては、波風が立たない形でこの問題を葬りたかった。だから牧野に対し「問題は重大でいずれ総会で議論することになるだろうから、前文への挿入提案は取り下げてくれ」と勧告した。だが牧野は応ぜず、あくまで採決を求めた。ウィルソンはどう思っただろう? 心境を描いたものは無いが、推測すれば「マキノよ、お前の国の最大の要求である山東権益については、大筋は認めてやったではないか。もういい加減にしてくれ」と考えていたに違いない。
何度も述べたように、アメリカには日本の桂-ハリマン協定の一方的な破棄以来、「日本は中国からアメリカを締め出そうとしている」という不信感があったのに加え、世界大戦で欧米各国が必死に戦っているあいだに日本がちゃっかりと「対華二十一箇条」を押しとおしたことによって、対日不信はより強まった。だから日本の山東権益を認めるというのはアメリカにとって最大級の日本に対する譲歩であり、ウィルソンにしてみれば「これだけ譲ってやったんだから、オレの言うことを聞けよ」だったろう。