繰り返すが、ここはアメリカにも「貸し」を作る絶好のチャンスであり、国益だけにこだわるならば「わかった、ここは引き下がる。ただし、貴国との懸案事項である移民問題については進展を期待する」という手もあった。
しかし、牧野は応じない。問題は国益では無く、人類の利益だからだ。では、牧野はこのときどう思っていたか? これも推測だが、「ウィルソン大統領よ。あなたはなんのために国際連盟を作ろうとしているのですか? それは第一次世界大戦の惨禍を絶対に繰り返さないためでしょう。それならば帝国主義の根源にある白人の有色人種に対する差別を撤廃の方向に持っていかなければならない。それがわからないのですか」だったに違いない。
ウィルソンはしぶしぶ採決を実行した。当日委員会に参加していた各国代表は十六名だったが、十一名が賛成し、五名(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニア)が反対した(オーストラリア、カナダなどは大英帝国のメンバーでイギリスが代表しているので委員はいない)。つまり採決結果は十一対五であり、過半数どころか三分の二以上が賛成したわけだ。
しかし日本外務省の公式記録によれば、ここで議長のウィルソンが「全会一致で無いため、提案は不成立」と宣言し、牧野は抗議したがウィルソンは議長権限で押し切ってしまった。この強引なやり口は内外で広く報道され、とくにアメリカでは黒人たちの大統領への抗議デモが各地で起こったくらいである。こうして「人類初の快挙」はウッドロウ・ウィルソンによって潰された。
だが、現代のイギリスを見ていただきたい。帝国時代のイギリス人と言えば例外無く白人であり、インド人などは二級市民にすぎなかった。しかし、現代ではあたり前のように白人では無いイギリス人がいる。その道は誰が切り開いたのか?
そう、牧野ら日本代表が最初のきっかけを作ったのである。
(第1456回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年6月6・13日号