「ずっと面白い番組ではいられていると思うんですけど、若林さんもたまに収録で言うんですけど『もうちょっと面白いと思われていいよな』って(笑)」
「ニッチでも面白ければいい」という金言
舟橋は小学生の頃、『ごっつええ感じ』(フジテレビ)を見て笑いすぎて過呼吸になるほど、子供の頃からお笑い好きだった。早稲田大学時代は寄席演芸研究会に所属し、「大学お笑い」の黎明期に学生芸人として活動していた。
「小学4年生の頃に松本人志さんの『遺書』を読んで『暗いほうが面白い』と書いてあるのを読んで、中学からちゃんと暗くなって、松本さんを好きな人間が歩むルートを歩んできましたね。クラスでも端っこにいましたけど、ひょっとしたら自分は何が面白いか分かるかもという自意識があって、高校ではコント的なことができるかなと思って演劇部に入りました。全然思った感じではなかったんですけど、途中から脚本と演出を担当しました。それで、大学ではお笑いサークルに入って。学生芸人は、いまのように堂々とその身分を言える地位ではなかったですけど、ずっとお笑いに近そうなところを辿ってきました」
芸人にはなれないと考えた舟橋は、お笑いをつくるならテレビ局員になるしかないと考え、テレビ朝日に入社した。テレ朝が第一志望だったという。
「テレビ朝日は『銭形金太郎』とか『アメトーーク』の「メガネ芸人」とかを見てもうっすらそうだと思うんですけど、ネガティブなことを面白くしてプラスに転じさせるところがあってシンパシーを感じていました。他局も受けたんですけど、やっぱり自分のやりたいこととか価値観と近いのがテレ朝だったし、そんな自分を採ってくれたのもテレ朝でしたね」
情報系のバラエティのADを担当し苦しんでいた舟橋を救ったのが、同局で先輩の藤井智久だった。彼はちょうど『マツコ&有吉の怒り新党』を立ち上げようとしており、異動先を探されていた舟橋を受け入れた。