一時は陸相候補にもなった多田は、北京の北支那方面軍司令官時代の1941年3月、東條英機陸相(右)を出迎えた(写真/遺族提供)
しかし、多田やその盟友の石原莞爾(かんじ)を中心とする陸軍内の「不拡大派」が勢力を得ることはなく、日中両軍の衝突が繰り返され、対中戦争は泥沼化していった。
その後多田は、陸相の候補に名前が挙がることもあったが、対立関係にあった東條英機から引退を勧告され、1948(昭和23)年12月に病没した。
多田の唯一の評伝『多田駿伝』の著者・岩井秀一郎氏は、他の陸軍幹部に比べて多田に注目が集まらなかった理由の一つに戦後根強く残っていた「陸軍悪玉史観」があるのではないかと推測する。
「満洲事変や盧溝橋事件などで主に陸軍が戦線拡大や軍国主義化を主導したという〝陸軍悪玉論〟が戦後に浸透しました。そうした中で、陸軍内の『不拡大派』の存在が語られる機会が少なくなっていったと思われます。また、政府連絡会議で涙を見せてしまうような脆弱さが多田駿には見てとれます。それは、軍人としての多田の限界であると同時に、“悪玉”とは対極の人間性を表わしているように思います」
従来の歴史観や戦争史を逆照射した作家・保阪正康氏の名著『陸軍良識派の研究』にこうある。
〈歴史の功罪をむろん土台にして考えなければならないにせよ、あの時代に生きた尊敬できる人の軌跡、そしてその資質は相応の視点で検証しなければならない〉〈高級軍人や下士官、一般兵士のなかにも数多くの『良識派』とか『理知派』に分類される人たちが存在したと思う〉
多田駿もまたその一人に挙げられるだろう。
【プロフィール】
多田駿(ただ・はやお/1882-1948)宮城県仙台生まれ。陸士15期、陸大25期。1937年に陸軍参謀次長。1941年予備役。東京裁判で証人として出廷後、胃がんのため死去。享年66。
【参考文献】堀場一雄著『支那事変戦争指導史』時事通信社、岩井秀一郎著『多田駿伝 「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』小学館、保阪正康著『陸軍良識派の研究』光人社NF文庫
※週刊ポスト2025年8月8日号