しかし、だからと言って当時の大日本帝国が人種差別撤廃という大きな方向性を持っていたことの否定材料にはならない。国際連盟創立時における具体的な提案など証拠はいくつもある。それにいわゆる朝鮮人差別についても、それはたとえばイギリス統治下インドなどにあったイギリス人によるインド人差別とはまったく違うものだ。
これについてはいずれ詳しく触れる機会もあるだろうから、一つだけ日本人とイギリス人の差別がまるで違うものであった事実を提示しておこう。じつは、すでに紹介したことでもある。大日本帝国陸軍に朝鮮系日本人の中将がいた、ということだ。
〈ホンサイク【洪思翊】
Hong Sa-ik 1887[高宗24]・2・2~1946・9・26
朝鮮植民地期の日本軍人。
京畿安城(アンソン)生まれ。陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校を卒業して陸軍将校に任官[1914]。以後陸軍のエリートコースを進み、王公族を除く朝鮮人唯一の陸軍大学卒業者となった。第二次大戦後、B級戦犯(捕虜虐待・殺害)として起訴、死刑に処せられた。最終官等は中将。〉
(『岩波 世界人名事典』岩波書店刊)
注目していただきたいところは、二つある。まずはご本人の名前である。左翼歴史学者たちは「名人芸」で「大日本帝国はすべての『朝鮮人』に創氏改名を強制した」と思わせようとしているが、洪思翊陸軍中将という「実例」を見れば、それが大ウソであることがわかるだろう。
前にも述べたが、彼は単なる一民間人では無く、帝国陸軍の軍人なのである。総指揮官は、ほかならぬ天皇だ。つまり、天皇の名を持ち出して日本風に改名せよということが不可能では無かったにもかかわらず、日本陸軍はそれをしなかった。逆に言えば、陸軍内ですら「朝鮮名で通す自由があった」ということなのである。ただし、「読み」はホンサイクでは無く、日本式に「こうしよく」であった。
「自由で、幸福で、繁栄した大東亜」
もう一つ重要なのは、「王公族を除く朝鮮人唯一の陸軍大学卒業者」だった、ことである。大日本帝国において皇族男子は基本的に軍務に就くことが求められ、例を挙げれば北白川宮能久親王(輪王寺宮)は陸軍大将であった。それは大日本帝国に属した李王家でも同じで、高宗の第七王子李垠は陸軍中将となった。だが、洪思翊にはそうした「七光」は一切無く、平民同然の出身なのに叩き上げで中将まで出世したのである。
陸軍で出世し、とくに将官(少将以上)になるには陸軍士官学校を優秀な成績で卒業するだけではダメで、連隊の推薦を受けて入試に合格し陸軍大学校に進学しなければならない。推薦された全員が進学できるわけでは無い。だから、この入試には連隊の名誉がかかっていた。逆に言えば、実力さえあれば朝鮮系であろうと中将にまでなれるということだ。これは、イギリス統治下におけるインドでは絶対にあり得ない。
イギリス人はインド人を植民地支配し、差別し搾取している。そういうインド人を軍隊に入れて出世させたら、いったいどうなるか? 軍隊においては「上官の命令が絶対」だし、なにしろ武力集団である、反逆してきたら大変なことになるではないか。だからイギリス軍は絶対にインド人を幹部に登用はしなかった。それでも末端の兵力は必要だから、カネで下級兵士をインド人から調達した。